おとなの能書き
第十三回 本は生き残れるか
文:イッコー・オオタケ | 2008.07.22
今ケータイ小説が若い人の間で人気を博している。
彼らはあの小さくてピカピカ光る窓の中に、その親指で夢や恋や悲哀を詰め込み、仲間たちと交感し合っているらしい。
僕はもうオジサンなのでケータイで小説は読まないが、それもきっとアリなのだろう。手段はどうであれ若者が日本語の文章に触れる機会が増えるのはとてもいいことだと思う。 すでにケータイ小説から単行本になる逆転現象も珍しくなくなってしまった。
何を隠そう僕には、とある小説のモデルになったという輝かしい過去がある。
それもただ小説になったばかりじゃない。なんと「すばる文学賞」という歴史と名誉ある文学賞の受賞作のモデルである。ただし断わっておくが僕はモデルになっただけで、執筆したのは僕ではない。
前にも書いたが僕はかつて広告会社に勤めていて、企業絡みの様々なイベントに関わってきた。ここで実に多様な仕事をした。
メジャーなところでは企業の周年パーティー、自動車メーカーの新車発表会やモーターショー。多種な企業の展示会やキャンペーン。そのほかにも宮内庁の式典もやったし省庁・自治体のくだらないイベントで税金の無駄遣いの片棒も担いできた。
そんな中で今も記憶に残るのが、もう20年以上前に銀座の街を舞台に行った「銀座チンドン大パレード」だ。
有楽町の大きなデパートのオープンに日本全国からチンドンマンたち (かつてのチンドン屋さんが今はこう呼ばれる) を呼び集めて、大学生の仮装アルバイト集団と共に華の銀座の街中を広告のノボリを立てチラシを撒きながら練り歩いたのだった。
およそ100人から成るエキセントリックな仮装集団が華の銀座の檜舞台に一同に会した姿は圧巻で、この光景はちょっとした“事件”だった。この集団を10組ばかりのグループに分け、それぞれのチームが碁盤の目のような銀座の街頭に繰り出した。
パレートが始まると沿道の人々も始めのうちこそ呆気にとられていたが、やがて皆にこやかに声援を贈ってくれた。
さらに驚いたことにビルの上階を仰げば、その窓越しに手を振るたくさんの人たちまでいた。
僕はこのイベントの責任者だったのでチームやコース決めから、行政、警察への申請、スタッフの食事場所やトイレの手配まで全部やった。
ケッサクだったのはその食事風景だった。
事前にコース近隣の数件の居酒屋に出向きコトの仔細を説明して、「コレコレこういう風体の人たちが数十人ばかり食事をしたいので、まぁひとつよろしく……」と、頭を下げてお願いしておいた訳だが、いざ当日、現場を目の当たりにして思わず吹き出てしまった。
プロ意識の高いチンドンマンたちはこの“晴れ舞台”のために特別な装束を用意していた。
見るからに怪しい身なりの「ミッキーマウス」は金ビカの着物の「殿様」とテーブルを囲み、全身真っ黒にドーランを塗った「南洋のクロちゃん」が手作りの仮装の学生バイトの「ウルトラマン」と談笑していた。
あまりにシュールな光景を目の当たりにして、僕は可笑しくてひっくり返りそうになった。ただ皆を前に大笑する訳にもいかず、こみ上げてくる笑いをこらえるのにただもう必死だった。
企画モノのイベントも色々と手掛けたが、銀座という大人のお洒落な街の景観と、ド派手なチンドンマンたちの仮装行列の対比はこれまでにない莫大な宣伝効果をもたらし、新聞やTVも大きくこれを取り上げた。
結果としてこのイベントは大成功に終わったのだった。
それから一年半ほど経った頃、このイベントで運営管理のバイトを頼んでいた古い友人から唐突に連絡があった。
「実はあの時のイベントを小説にして賞を獲った。次号の誌面で発表になる」
この男はこの時、現場で運営スタッフとして体験したチンドンマンと学生たちとの交流やパレードでの諸々のエピソードをひそかに書き貯めて、後に一編の物語を仕立てていたのだ。
僕が驚いたのは言うまでもなく、雑誌の発売日に本屋に走った。頁をめくるのももどかしく誌面をなぞると、思わず目がテンになってしまった。(表現が古くて恐縮だがこの時ばかりは文字通りだった)
自分がそっくりモデルになっているではないか !!!
こうして僕の人生の1ページに“小説のモデルになる”という輝かしい経歴が加わることとなった訳だ。
旧友の長年の夢が叶い、僕の仕事が小説になったことは本当に嬉しかった。僕たちの青春期の体験が一冊の本になるというのはそれほどドラマティックな出来事だったのだ。
本は時代を超えてこれからもずっと残り、頁を繰ればいつでもあの時に帰ることができる。
それにしても今はケータイで小説やエッセイも読めれば最新のマンガまでがダウンロードして読むことができる。
それ以外でも従来は書籍から得ていた情報がパソコンや電子ブックでいくらでも閲覧できるようになって出版業界は今、未曽有の不況に喘いでいると聞く。
こういう時代に果たしてこれからも本は生き残っていけるのだろうか ?
でも書物を手にした時の質感や装丁の美しさ、頁の手触り感というものはディスプレイ画面では味わえないものだ。
今後どれほどテクノロジーが進化したところで「本」という媒体が消滅することはないだろう。否、絶対そんなことにはなって欲しくない。
ただそうは思っていても世の中は需要と供給の経済原則で動いている。絶滅は免れても数が減少すれば執筆者の質や発掘にも影響しかねない。
やっぱり僕はちょっぴり心配だ。
プロフィール
イッコー・オオタケ
1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。
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