おとなの能書き
第十八回 家族の肖像
文:イッコー・オオタケ | 2008.12.22
日本が昭和の高度成長期を迎えた頃、僕は東京下町の核家族の中で育った。
父も母も晩婚で僕が生まれた時、父はすでに五十の峠を越えていていた。それでも親子三人で仲むつまじく暮らしていた……と言いたいところだが、そこは家庭の事情というヤツでなかなかそうもいかずに、僕は父と母の間を行き来しながらも主に母親とふたりで暮らした。
母も昼間は働きに出ていて、僕はいわゆる“一人っ子でカギっ子で恥かきっ子(高齢の両親に生まれた子供のこと)”という昭和の子どもの三重苦を背負っていた。
そんな訳で僕にはどこか当時から大家族に対する“気後れ”みたいな感情があった。
小学生の頃だった。カギっ子だった僕は夕食を一人でとることも多く、それを知っていた友達の家の夕餉に「お呼ばれ」に与(あずか)ることがあった。
その家は兄弟三人に祖父母が揃う大家族だった。とても賑やかな食卓で僕にもとても優しく接してくれた。
しかしこういう時、僕は本当に困惑してしまった。
なんとも尻の座りが悪く、身の置き所が無いのだ。
大家族に慣れない僕はこうした席でどう振舞っていいのか分からず緊張してうまく話せない。大人達の前では子供らしくしなくちゃ、みたいなことを考え過ぎて何を話してもぎこちなくなってどうにも腰が落ち着かなかった。
今思えば厄介な子供だったものだ。
この感情は僕の中で今もどこか引きずっているところがある。そのせいかどうか判らないが大人になった今も家族は最小単位のままだ。
僕は結局、家族に縁が薄いまま今に至ってしまったが、「家族」への想いは複雑で、実のところ気遅れと憧憬が相半ばしている気がする。
ドラマの世界でもあの頃はホームドラマが全盛だった。
僕らの世代の人間はホームドラマにどっぷりと浸かって育ったと言っても過言ではない。
NHKの朝ドラに始まり、木下恵介シリーズ、橋田寿賀子、向田邦子、久世光彦、倉本聰、山田太一などなど、ホームドラマの名作を生み出した旗手と言われた人々が綺羅星の如く居並んでいた。
中でも「父の詫び状」に代表される久世光彦演出の向田邦子作品や倉本聰の「北の国から」には僕個人的にも大きな思い入れもあって、書きたいことは幾らでもあるのだが、書き出すとキリが無くなりそうなので止めておくことにする。
いずれにしてもかつての日本のドラマの多くは「家族」を中心にして作られてきたと言っていい。
しかし今では最早ホームドラマというジャンルが成り立たなくなりつつある。
「家族」の形態も昨今すっかり変ったものである。
家族の結びつきがどんどん希薄になり、夫婦は親との同居を望まず子供は親のいる家庭に寄り付かなくなった。
その結果が及ぼした影響かどうかは解らないが、子供や老父母への虐待や子供による近親殺害事件のようなおぞましいような事件が毎日のように頻発している。
もうひとつ気になるのはモンスターペアレントと呼ばれる身勝手な親の出現である。
自分と自分の家族だけがよければ他人はどうでもいいという考え方の親たちがそこらじゅうに現れたのには正直言って驚いた。
自分たちの勝手な都合を学校に押し付ける、また給食費を払えないのではなく、払わない親たち。
もしも僕の両親が生きていたらこれを一体どう思うだろう。自分たちの食いぶちを減らしてでも子供にお金を持たせるのが親というものだった筈だ。あの親たちは他人を犠牲にして身内だけに利があることを家族愛だと思っている。“愚の骨頂”とはこのことである。
「家族」は本来社会生活の基本になる構成単位だ。
だから子供は親や祖父母と暮らすことで身近な大人たちとの関わりやそれぞれの立場を識る。
それを理解して家族同士が助け合うことも自然と身につけるようになり、家族を通して老いや死というものにも間近に触れる機会をもつことにもなる。
「家族」の在り方を見直すことはこの国の将来を考えることときっとどこかで繋がっている。
とは言いながらも、まぁホンネを言えば、関係が上手くいっていればいいが一度こじれるとなかなか修復の効かない軋轢(あつれき)をもたらすのもまた「家族」というものだ。
普段は仲むつまじい家族だって「寅さん」や「寺内貫太郎一家」じゃないが時にはドタバタと激しくぶつかることだってある。それはいつの時代だって変わらない「家族」の現実だ。
それでもブーブー文句言いながらもなんとか取り繕ってやっていくのが実は正しい「家族」の在り方なのかも知れない。
今は何か皆、家族も含めて人とぶつかることを極端に恐れ過ぎているような気がする。
「喧嘩するほど仲がいい」のが「家族」なのに。ぶつかり合って傷ついてまた修復することで「絆」が生まれる。
昨今の猟奇的犯罪や重大事件を見ていると忍耐力とか人を許す寛容さが無くなっているように見える。
互いに許し合うことを家族の中で学んでいたら少し違った結果になっていたんじゃないかとも思う。
そう、それと忘れちゃいけないのは誰もが最期に帰ることのできる場所が「家族」だということだ。
だからミジメな老後を送りたくなければ今から最期に帰る場所だけはシッカリ“確保”しておかないと……。
うーん、やっぱり「家族」って難しいもんだ。
プロフィール
イッコー・オオタケ
1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。
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前回のお返事ありがとうございました。
「自分を癒す為に歌う・・・」まさに始まりはこの理由でした。
そして、私は自分の歌を聴いてくださる方を家族のように感じています。
寄せて頂くあたたかい想いで、私の心の穴は少しづつ埋まっていきます。
いつか、その穴が埋まり満たされる時が来たら
今度は、私からあたたかい思いを伝えて行けるように・・・
投稿者:南ひろみ
2009年01月06日 03:08
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