おとなの能書き
第十九回 酒場の品格
文:イッコー・オオタケ | 2009.01.07
『ロハスサン』読者の皆様、新年おめでとうございます。
本年も、併せて「おとなの能書き」、宜しくお願い申し上げます。
年もあらたまったので、目出度く酒席の話で鏡開きなどを……。
よく酒呑みの中に、酒を呑む目的は酔うためだと言って憚 (はばか)らない御仁がいる。
おそらくこういう人は本当にお酒が好きなのではないのだろうと思う。
僕はこれには賛同できないし、そういう御仁と酒席をご一緒するのも遠慮したい。
僕が酒を呑むのは、酒そのものの味とその酒に合う旨い肴を愉しむため、それともう一つは大切な友人だったり好きな人と美味しくて愉しい時間を共にしたいからだ。
そこでいつも悩むのは、じゃあいったいどこで呑むか?という問題なのだ。
いつも行く店は決まっているという人は多いと思う。
それでも誰しも時と場合によっては新たに店を探さねばならないこともあるだろう。
「どこにする?」と聞かれて「どこでもいいよ」とは言いつつも、手当たり次第に飛び込んで後で「あぁやっぱり止めときゃよかった」というような経験は皆がしている筈だ。
酒場を選ぶ場合、重要な要素となるのが「誰と呑むのか」は当然として、相手も近所ならともかく「場所をどうするか」「予算はどのくらいか」「奢りかワリカンか」「料理や肴は何がいいか」というのはかなり考慮すべき問題だ。
もっと言えば参加人数や男女比、年齢構成もそうだし、皆の当日の体調だって店を選ぶには気になる。
まぁ何もそこまで気にしなくても…と言ってしまえば身も蓋もない。
“呑んべぇ”の身としてはやはりここは簡単には妥協はできない問題なのだ。
「いい店、悪い店」なんていうのは所詮個人の好みの問題だと思う。
巷(ちまた)で話題のミシュランの“幾つ星”なんていう店はどうだか知らないが、雑誌なんかに取り挙げられている店でもいざ行ってみたら大したことはないなと感じる店もザラにある。
ただ、実際に足を運んでみて、しみじみと「ああ、これはイイ店だな」と思うような店にはやはりそれなりの理由がある。
これまでにさんざんと酒場を巡ってみて思うのだが、イイ店には人間と同じように確箇として“店の品格”というものが存在する。その辺りを僕なりに考えてみたい。
まず始めに言っておきたいのは料金についてだ。酒場と言っても先のミシュランに載るようなお一人数万円の高級店から酒屋の立ち呑みまでその開きはかなり大きい。
料金の張る店の食材やサービスが良いのは至極当然の話で、こんな店は僕の守備範囲じゃない。
当たり前のようだが僕が気になるのはコストパフォーマンスの高い店、つまり支払った料金以上の満足感が味わえる店なのだ。
居酒屋や小料理屋というジャンルで言うと、僕ももういい年齢なのであまりガヤガヤと騒がしい店は苦手だ。できるならこじんまりとした店で小うるさくなくて親爺かおかみさんの二、三人でやっている店がいい。
それとあんまり常連ばかりで埋まっているのも気が引ける。客と板場の関係というのは“つかず離れず”といった絶妙な距離感を保っていてほしい。
酒と料理の品数は多い方がいい。大切なのは料理を出来合いではなくちゃんと手間をかけて手作りしていること。実はこの“手間をかけて”というところ一番大事で、料理というのは手間暇をかけていればそういう味がするものなのだ。
あと僕個人的には料理にひと工夫してある物、よくある品でもそこに「ええっ、これが」というような意外性が感じられると酒肴としてはかなりポイントが上がるというものだ。
寿司屋の場合でも酒が主体である以上、サイドメニューが豊富なことが一つの条件だ。板場の清潔感や板前のキビキビとした仕事振りも目安になる。
握りもシャリは小ぶりでその上で“浸け”や“昆布〆”なんかの「仕事」のしてあるネタで勝負している店はまず外すことはないと思っていい。
焼鳥屋も最近はブランド鶏や珍しい種類の部位を出す店が珍しくなくなった。しかしガード下で昔ながらの値段でモクモク煙を上げている店もまだまだ元気で捨てがたい。
焼き鳥は何と言っても手際が勝負だ。真っ黒く焦がしたり注文が追い付かないようじゃいい店とは言えない。武骨で怖そうな親爺が、たとえクルマが飛び込んできても炭焼き台に張り付いて離れないような店。それともうひとつ、シオ焼きが旨いこと。これは絶対条件だ。
僕の経験上、「オリジナル創作料理」なんて大きく看板に謳っているような店に限って大した品が出てきた試しがない。
そんな謳い文句なんかじゃなくて壁に短冊メニューがいっぱいあって、簡潔で気の利いた分かり易い料理名が並んでいる店、やたらと自慢することなく謙虚でありながらも親爺の目には力が漲っている。そんな店なら期待大だ。
そもそもこういう店は客筋も良いし既に暖簾の前の軒先から清涼感にも似た“イイ感じ”が漂っている。
だから酒呑みがいい店を嗅ぎ取る“直感”というものも侮るべからざるものなのだ。
ミシュラン本の評価なんかをアテにするよりも酒呑みの五感を働かせて見つけた店こそ価値のあるイイ店なのだと思う。
しかしながらご同輩の呑んべぇの皆様、値踏みしているのは店側も同様だということを忘れてはいけない。
鼻を利かせてやっとこ良さ気な店を見つけても、呑み手に“酒品”がないと、「まことに申し訳ありませんが次回は…」てなことになり兼ねないのでくれぐれも留意のほどを。
プロフィール
イッコー・オオタケ
1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。
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