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おとなの能書き

第二十三回 お茶の水 カルチェ・ラタン

文:イッコー・オオタケ | 2009.05.13

 最近はめっきり訪れる機会が少なくなってしまったが、僕にとって神田、お茶の水という街は中高大と学生時代の多くを過ごした街で、この広い東京の中でも特別な場所だ。

 当時の僕らの活動エリアを座標にしてみると、縦軸が山手線の上野から神田あたりまで、横軸がJRの黄色い電車が走る秋葉原からお茶の水、水道橋あたりだろうか。
 僕は青春期の大半をこの一帯の中で過ごしてきた。

 今も忘れられない光景がたくさんある。
 秋葉原の街が今のようになるずっと昔、当時の電気街の裏通りにあった中学校の帰り道、僕は友達と連れ立って電気店を素見(ひやか)し、当時は珍しかった大きなレコードショップでLPを漁り、たくさんのアーティストたちを試聴した。

 今も頭に焼き付いているシーンが、あの長嶋茂雄の引退試合を電気街のショーウインドゥの中のテレビで視た記憶だ。
 学校からの帰路、電気街を見渡してみると街のいたる店の前に鈴生りの人垣ができていた。 テレビを見つめる大人たちの中にはミスタージャイアンツの最後の雄姿に歓声を上げる人、引退式で目を赤くして泣いている人も大勢いた。
 後にも先にもあんな光景を見たのは初めてだった。

 最近大宮に移設された「鉄道博物館」も近年まではこの近隣にあった。
 正確にはかつてあった中央本線「万世橋駅」の駅舎を利用して造られた施設で館内に改札や階段の跡が残っていたり、上部にはプラットホームの基礎部分があって、現在でも中央線の神田~お茶の水間の大きなカーブに沿ってその遺構を見ることができる筈だ。

 この万世橋の中央線の線路に沿って坂を登って行くとほどなく、ニコライ堂を横目にお茶の水の聖橋(ひじりばし)にさし掛かる。
 言うまでもないが、この辺りは多くの大学、専門学校、予備校などが櫛庇(しっぴ)する学生街で日本のカルチェ・ラタンと云われる所以だ。

(写真その1)

 お茶の水の駅の並びに今も在るが美術画材ショップで有名な「檸檬」という店の並びに同じ名の喫茶店が在った。
 高校生の頃、かのインベーダーゲームが大流行した。下校時、僕らはこぞってこの店に通って覚えたてのタバコをふかしながらピコピコとゲームに興じたものだった。
 思えば僕らはここで総額いくらの百円玉を供出したことだろう。
 お茶の水のスクランブル交差点を出て右に向かえば、銀杏並木にアテネフランセというまさにお茶の水カルチェ・ラタンを味わえる絶好のロケーションなのだが残念ながら僕らはあえて別の道を選んだ。

 交差点から駿河台下に向かって坂を下るとそこにはたくさんの楽器店が居並ぶ。
 当時のフォーク・ニューミュージックブームに煽られて、ここで僕らはギターの洗礼を受けることになる。
(余談になるがこの「ニューミュージック」なるコトバ、誰のネーミングなのか知らないが、当時からキライだったけど今聞いても最低のネーミングだと思う)

 もちろん素見しである。マーチンやオベーションといった憧れの高級ギターを僕らは腕組みして眺めるしかなかった。
 神田駿河台は何と言っても本の街である。コミックから難解な哲学書までありとあらゆる書物が揃っている。
 古本屋も多く、間口の狭い店の奥で、埋もれた本の隙間から不機嫌そうなオヤジさんが客に睨みを利かせている。どの店も店それぞれに独自の匂いと存在感を放っているのが判る。
 この頃に書店通いをしたことが後になって大いに役立った。
 僕は後に広告企画の仕事に就いたのだが、どこの書店がどの分野に強いといった情報はなんとなく頭に入っていて立案の資料探しで手間取ったことはまず無かった。

 学生時代は駿河台下に今も残る「人生劇場」という名のパチンコ屋に通い詰めた。当時からなんとステキな店名なのだろうと思っていた。今でもこれに勝るパチンコ屋の名前は空前絶後じゃないかと思う。
(ぜひとも「ニューミュージック」の名付け親に見習っていただきたいものである……)

 ここは当時としては景品の種類が豊富で景品棚にはちょっとした書店をはるかに凌ぐくらいの本が並んでいた。それに出玉の交換比率がいいことも魅力だった。
 僕らはここの景品で洋モクの味を覚えたのだった。
 パチンコにいそしんでお腹が減ると「いもや」へ行く。この店はトンカツ、天丼屋とカレー屋に分かれていてどっちもめちゃくちゃに安くてボリュームに溢れる貧乏学生が泣いて喜ぶような店だ。

 今はだいぶ数が減ったようだが喫茶店も珈琲一杯でねばれる店がいっぱいあった。
 コーヒーショップと喫茶店には明確な区別がある。喫茶店にはおいしい軽食メニューが揃ってなくてはならない。
 中でも「さぼうる」は今も残る名店だ。ここのナポリタンは本当に旨かった。

 当時は大学の校舎もたくさん在ったが今では中央大、日大など多くが都下に移転して行ってしまった。
 ただやはり学生街の佇まいみたいなものは今も残っていて、そのことにちょっとほっとする。
 それと同時に感じるのは、この街が昨今の多くの街がそうであるように大資本とそのテナントに委ねられた商業施設じゃなく、今も個人商店や中小企業の店舗が街の骨格を形成していることだ。

 僕にはそれが嬉しいのだ。街が大資本に支配されていない、自由で大らかな雰囲気といい意味の不揃い感がとても気持ちいいんである。
 しかしながら、このことこそが学生の街『お茶の水カルチェ・ラタン』の面目躍如と言えるのじゃないだろうか。
 願わくばこの佇まいがいつまでも失われることのないように、と僕は祈らずにはいられない。


プロフィール

イッコー・オオタケ
イッコー・オオタケ

1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。


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