おとなの能書き
第十回 足るを識(し)る
文:イッコー・オオタケ | 2008.04.14
これは食通で知られる、ある作家の“食”にまつわるインタビューでのエピソードだ。
子供の頃にやはり食通だった父親に度々外食に連れて行かれた時、中華料理の大皿に盛られた料理を自分の皿に取ろうとすると父親から口喧(やかま)しくこう言われたそうだ。
「いいか、料理は何をいくら食べてもいい。でも皿には自分が食べられる分だけ取りなさい。食べ切れないほど盛るのは行儀の悪い、卑しい行為なんだよ」
この作家は今でもこの教えを固く守って自分の子供にも戒めていると言う。
僕は食いしん坊なのでバイキングスタイルのレストランなどに行くと時々この手の恥ずかしい失敗をやらかすことがあるが、僕がこのエピソードを思い起こしたのは食事のシーンとは無縁な環境問題のニュースをテレビで見ていた時だった。
長大な年月を経て形成された北欧の氷山が不気味な音とともに崩れ落ちていく。温室効果による世界的な気温上昇は北極の氷をも溶かし極地に生きる生き物たちの生命を奪う。
溶け出た大量の水はやがて世界各地で人々の生活域に迫り、島を、大地を呑み込みついには人命を脅かす。
近年になってニュース映像でたびたび流される、実に恐るべき光景だ。これはすべて人間が日々の文明生活を営む中で化石燃料を大量消費し続けた結果によるものである。―というのは今や誰もが知る通りだ。
これはまさしく地球の限りある資源を喰い尽す行為に他ならない。
食べ切れないほどたくさんの料理を自分の皿に盛り続けた「卑しい行為」が招いた惨状と言っていいのではないだろうか。
先のエピソードが示唆するのは、必要以上にものを欲しがるな。与えられたものを無駄なく大切にせよ。という教訓であると同時に人間の品性への矜持なのだ。
実のところ環境破壊の問題は来るべきところまで来ていて、現状のまま進めばいよいよ抜き差しならない状況に陥るというのが大方の識者たちの見方だ。多分、それは正しくて実際そうなるのではないかという気がする。
かつて円谷プロで脚本を担った故、金城哲夫は東西の冷戦時、長く大国が核兵器開発にしのぎを削った状況を例えて「血を吐きながら続ける悲しいマラソンだ」と書いたのが、冷戦を遥か遠くに超えた今、現実味を帯びて我々に迫ってくる。
全世界で今、さまざまな環境問題への取り組みが行われている。だが結局のところ解決への大きな決定打となる方策は何ひとつ実行されていない。
なにしろ事ここに至ってさえなお世界最大のCo2排出国である米国は、かの京都議定書の批准さえしていないのだから。
これは断言してもいいと思うが、環境破壊の進行を確実に食い止める方法はたったひとつしかないと思う。
文明国に暮らす我々自身が自らこう宣言することだ。
「もうこれくらいで充分、これ以上の便利は求めない」と。
実際、我々の身の回りには生きるために必要のないモノに溢れている。
我々の文明は便利、快適を追及することで発展してきた。
文明国に暮らす人間はその恩恵にどっぷりと浸かって日々を送っている。それを今、敢えて放棄する決断を果たして我々は下せるだろうか。
「足るを識(し)る」とは箴言(しんげん)なのだ。
小さな取り皿に地球の資源をてんこ盛りにしてきたこの“卑しい愚行”を、今一度人類の英知で転換すること。ここに環境破壊を止める大きなカギがある気がする。
環境問題の深刻さはもはやその段階まできているのではないか。僕にはそう思えてならない。
プロフィール
イッコー・オオタケ
1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。
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