おとなの能書き
第七回 消えゆく映画館へのレクイエム(後編)
文:イッコー・オオタケ | 2008.01.18
映画館にはもうひとつ忘れられない思い出がある。大学に入って間もない頃だった。僕の古い友達が映画好きが昂じて山谷のピンク映画館の雇われ支配人になったという。
劇場の名を「テアトル千住」といった。
知らない人のために説明しておくと、東京の山谷地区というところはやや特異な場所で、あまり妙齢の女性や子供が脚を向けないちょっとキケンな香りの漂う労働者たちの町である。
僕が始めてそこを訪れた日、駅前二分のその場所にたどり着く間に行き倒れの男が三人いた。
呆気にとられながら到着して見るとその佇まいは入り口の脇にチケット販売機とモギリの窓口だけの古びた昔ながらの劇場で、その軒先には酔っ払いが転がっていた。
それより驚いたのはこの日の映画館の観客はなんとたった三人だった。平日の昼間だったからこんな日もあるのかと思いきやなんのことはない、ずっとこの調子で館内に二ケタの客を見つけることは滅多になかったと思う。
なにしろ観客よりもスタッフの方が頭数が多く映写技師以外は支配人を筆頭にみんなアルバイト従業員で年齢も近く、全員大学生ということもあって僕も知らずの内に仲間になっ
ていた。もちろん全員がむくつけき男ばかりであった。
ただみんな個性豊かなことこの上なかった。アホでバラバラで学校では知り合うことのできなかった愛すべき仲間たちだった。
始めの内こそ支配人は配給元の言われるままにプログラムを掛けていたがそのうちに自分からプログラムを組んで上映するようになった。
今でこそビッグネームになった監督や役者の多くがまだ無名だったこの頃、ピンク作品は彼らの桧舞台だったのだ。そうした作品の中から非常にアーティスティックなこだわりのある
ものを支配人以下仲間たちでチョイスして様々な特集を組んで上映した。
するとやがてその通好みの作品目当てに様々な人種が集まり始めたのである。それはかなりヘビーな映画マニアだったり、ピンク映画通 (メジャーな日活ポルノではなくあくまでピンクなのです) 、映画評論家や役者の卵だったり、ついには映画の出演者までが来るようになったのだった。
僕はその頃映画館とは無関係のバイトでドサ周りの営業イベントであちこちを駆けずり回っていた。でも映画館に帰ってくるとそこにはいつも仲間たちが居て、それが何より愉しみだった。
ある日の夕刻、映画館を訪れるとモギリの奥の事務室から賑やかな声と何やらイイ匂いが漂ってくるではないか。
まだ営業中だったと思うが四畳半ほどの狭い部屋に7、8人がスシ詰めになって折りしも「すき焼きパーティー」の真っ最中だった。
当然、僕も身体をねじ込んで参加したことは言うまでもない。
やがて劇場がハネるとこの後はお決まりのドンチャン騒ぎになるのだがそこにニコニコしながら乱入するやや皆と年齢の離れた映写技師Tさんがいた。
モジャモジャ頭に度の強いメガネをかけた一見若い時の渥美清みたいな風貌の博識人で映画に関する知識は生半可じゃなかった。映画のことは丁寧に何でも教えてくれた。若者たちの頼りになる兄貴分であり上映プログラムを決めるにもこの人がいればこそ面白い企画を組むことができた。
みんなで毎日のようにその日の客の話題や女の子の話、どうでもいいようなくだらない話に映画の話、それに人生の大切な事まで全部をゴチャ混ぜの肴にしてよく呑み、よくしゃべりまくった。
思えば僕らは青春真っ只中だった。ただその場所が山谷のピンク映画館だっただけで……。
こうして文章にするとただハチャメチャなだけの想い出のようだが、支配人と僕らの名誉のためにこれだけは記さねばならない。
なんと僕らのテアトル千住が「ヨコハマ映画祭」という映画賞の「特別企画賞」に選出されたのである。
これは成人映画のみならず幅広い邦画作品から選ばれるれっきとした映画賞でまさしくスタッフの努力が報われた結果だった。
この華々しい授賞式には雇われ支配人と副支配人の若者二人が立つことになった。
現地に行って二人は仰天した。この授賞式の出席者たるや物凄いメンバーだった。多くの映画関係者に続いてステージに呼び上げられた二人は、気づくと両側をあの伊丹十三監督と今や伝説と化した松田優作に挟まれていた。
その後両雄ともに早世してしまったがこの頃が一番輝いていた時代だったと思う。
どう見てもこの場にそぐわない若者二人は隣に並ぶ“芸能人”を横目にただただ圧倒されていた。
この様子は当時のスポーツ紙などにも取り上げられ映画館はしばらくの間騒がしい日が続いた。
でもどんなにいいプログラムを組んだところで観客が激増する筈もなかった。入館者は少数横ばいのままほぼ一年が過ぎる頃、経営元の会社から唐突に営業停止の決定が下された。当然ながら当時の若者たちにこれにあがらう術はなかった。
そしてとうとう閉館の日がやってきた。
不思議なことに僕はこの時のことを詳しく覚えていない。あれほど思い入れの深い場所の終焉の記憶が薄いのは意外だが案外そういうものなのかも知れない。
ただ今当時を振り返るとあれがたったの一年の間の出来事だということに驚く。あれはもっともっと永い時間の出来事に思えてならない。
当時の仲間とは現在ほとんど会う機会はない。
ただひとつ、僕は今、あの映画館で副支配人を務めていた友からの依頼を受けてこのエッセイを書いている。
映画館には僕と仲間たちの青春期のこんな可笑しくもほろ苦い思いが染み付いている。
プロフィール
イッコー・オオタケ
1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。
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