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おとなの能書き

第六回 消えゆく映画館へのレクイエム(前編)

文:イッコー・オオタケ | 2007.12.18

(写真その1)

 最新のシアターで久々に映画を観る機会があった。
 館内は清掃が行き届いていて、チリひとつおちていない。シートも比較的スペースがゆったりと採られておりクッションも程よい、肘掛けにはドリンクホルダーまでセットされていた。
 それに今の映画館はシアターが大小いくつもの部屋に分かれていて、それぞれの上映作品に応じた大きさの部屋が割り当てられほぼ全席指定になっている。
 まぁこれなら多少の混雑はあっても「立ち観」になることもないし、二時間を優に越える大作を観るにも尻の痛みを堪えながら苦痛な時間を過ごすこともなく快適に映画を楽しめる違いない。
 最近はこうした設備の行き届いた映画館が増えてきてとても映画が観やすくなった。映画ファンならずとも嬉しい限りだ。
 ただ仕方のないこととはいえ、昔ながらの映画館が櫛の歯がこぼれるように消えていくのはやはり寂しい思いがする。
 きっと誰にでも映画館にまつわる想い出のひとつやふたつはあることだろう。

 浅草という街は元々劇場と映画館の街だった。大正から昭和にかけて浅草六区街のメインストリートには多くの映画館が櫛庇 (しっぴ) していた。
 僕の大伯父さんはちょっとした浅草の名士で知られていた。まっ白な白髪で恰幅がよく雪駄履きに着流しという当時ちょっとダンディで小粋な爺さんだった。

 子供に恵まれなかった大伯父さんはまだ幼なかった僕の手を引いてよく近所散歩をした。すると少し歩いただけでどこからともなく顔見知りの旦那衆から大伯父にお呼びがかかる。
「まぁちょっといいじゃないですか」と僕共々お茶に呼ばれる訳である。
 なにせひと角行く毎にこの繰り返しなのだ。僕はこれがいちいち煩わしかったが時におみやげをもらうこともあって仕方なく律儀な伯父に従うしかなかった。
 それは六区街を歩いていても同じ調子だった。いつものように大伯父に手を引かれてとある映画館の前を通りがかるとそこの支配人と思しき人にお茶に呼ばれた。
 交わす会話は大抵どこでも一緒だ。たわいも無い世間話が始まると、傍でグズりだす僕を見かねて職員が気を利かせて僕を上映中の館内に連れ出してくれた。そしてタダで映画のご相伴に与ることになった。
 この時掛かっていたのは、「東映まんが祭り三本立て」だった記憶がかすかにある。
 ただもちろん全編を観られた訳ではない。ちょうどいいところで大伯父に呼ばれて外に出されてしまい僕は実に理不尽な思いがしたものだ。

 でも収穫もあった。それ以来しばらくの間僕は顔パスでここの映画を観ることができた。そして映画館に通ううちに内部を色々と観察することもできた。
 この頃の映画館は戦前からの古い建物が多く、お世辞にもキレイとは言えなかったが、昭和の初期に建設された建物はとても重厚なものだった。
 かつての豪奢な西洋建築の名残が見られ、真横から見ると半円形の劇場部分が客席からスクリーンに向かってまるで芋虫の背のようになだらかに傾斜していた。また内装にも彫刻やらレリーフといった手の込んだ細工が随所に施されていて子供心にも圧倒的な存在感を感じた。

 だが昭和も終盤にさしかかるとあれほど隆盛を極めた映画街も徐々に数を減らして、近年ではとうとう浅草からロードショー館が姿を消してしまった。
 僕が通ったあの懐かしい映画館もいつの間にか解体されて大きなパチンコ店のビルになった。もうあんな豪勢な造りの映画館は日本に存在しないのではないか。
 六区街もそこにいた人々もすっかり様変わりしてしまった。
 隔世の感、ひとしおである。
 そして映画館にはもうひとつ忘れられない思い出がある。

次回 後編へつづく…


プロフィール

イッコー・オオタケ
イッコー・オオタケ

1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。


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