おとなの能書き
第四回 異界へのトビラ
文:イッコー・オオタケ | 2007.10.15
これをご覧の諸兄の中には、近くにあるのになかなか行く機会がなくて行けない。一度行ってみたかったのにとうとう行きそびれて今はもう無くなってしまった……。そんな店が一軒くらい思い浮かばないだろうか?
東京の地下鉄銀座線の浅草駅は日本で最も旧い地下鉄の駅だ。確か昭和三年に浅草~新橋間が開通した筈だからもう80年ほども前の建造物である。
今では考えられないくらい低いプラットホームの天井や、昭和というより戦前の雰囲気さえ漂う古びた地下街に見事にその名残りを観ることができる。
浅草で幼年期を過ごした僕の記憶にあるこの地下街は、規模も小さく僅か50メートルほど続く通路の両側に食堂やら立ち食いそば屋やら一杯呑み屋なんかが密集していた。
ここは子供心にもちょっとあやし気な場所だった。地下水の染み出た石の壁。地下鉄の排気口から漂ってくる臭気 (そう、地下鉄の通る道路上の排気口から排出される生暖かい風、アレです…) と飲食店から漏れ出る臭いが相まって、この空間には独特の空気が漂っていた。
この地下街は駅から浅草寺方面への通路になっていて、くねった階段を上ると賑やかな商店街に抜け出た。この階段の途中にその店が在った。
かろうじてBarと解る漆黒のトビラ。中央に弓矢のようなエンブレムが付いているだけで他に何の飾りも看板も出ていない店。なんともアヤシイ雰囲気が漂う不思議な店構えだった。さらにおかしなことに、この店の前の細い階段の向かいは小じんまりした散髪屋でこの周囲はいつも消毒液の臭いがしていた。
僕は小さい頃からこの黒いトビラの中が気になって気になって仕方がなかった。あやしげな大人たちが集まって、夜な夜なアヤシ気な “何か”が繰り広げられている、昔の日活映画に出てくるような場所。当時から誇大妄想気味だった僕の頭の中はそんな好奇心でイッパイだった。
なんとか中を覗こうと思うのだが、あたり前の話だが子供が遊んでいるような時間にBarが営業している訳も無く僕の望みは永く果たされなかった。それに覗いてしまうと元に戻れなくなってしまうのではないか……そんな一抹の怖さもあった。
一度だけ、仕入れの時間か何かにあたってトビラが僅に開いていたのを周囲を憚(はばか)りながら覗き込んでみたが、まだ真っ暗で店の様子までは判らなかったが、薄暗い中にピアノが一台ポツンと置かれているのがかろうじて見えた。今になって思えばよくあるピアノBarだったのだろうと思う。
このBarとBarberの奇妙な取り合わせは僕が長じても無くなることはなかったが、あれほど気になっていたにもかかわらず、大人になってその手のBarに通うようになってからも一度もあの黒いトビラを押すことはなかった。
何故か?と問われても明快には答えられない。
ごく最近になってとうとうこの店は姿を消してしまった。何気なく通り掛かったら飲食店の倉庫になっていた。後悔は無いか、と言われれば確かに一度入ってみたかった気持ちはあるのだが、一方で謎の店のままで終わって納得しているところもある。
何よりガッカリしたくなかったんである。
思えばこれって男女の関係にもありがちな話しなんではなかろうか。このキモチ、解る方にはきっと解っていただけると思うのだが……。
プロフィール
イッコー・オオタケ
1960年東京の下町に生まれる。10年に渡り広告プランナーとして会社勤務の後、母親の実家である浅草仲見世の老舗小間物店の七代目店主となり屋号を継ぐ。
目指すところは“由緒ある下町の小言ジジィ”。
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