<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>まるい地球を駆け抜けろ | 連載エッセイ</title>
      <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/</link>
      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
      <lastBuildDate>Wed, 22 Apr 2009 14:17:18 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>第七回　象の話　その3　象の未来</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第七回　象の話　その3　象の未来<span class="index1_title_07"></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2009.04.22</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1_07">（写真その1）<span class="index1_pic_1_07"></span><!-- /span#index1_photo_1_07 --></span>
<p>　ニューズウィーク2008年4月2日号に「密猟ビジネスの血塗られた連鎖」という記事が掲載された。内容はチャド政府が国立公園本部の企画室に保管されていた象牙、1.5トン、130万ドル相当を奪われかけたことから書き始められている。この襲撃で国立公園の警備員が三名亡くなったそうだ。象牙は奪われなかったが、問題はジャンジャウィードというアラブ系民族組織が象牙を狙い、資金源にしようとしていることだ。この二年間にジャンジャウィードが密猟した象は数百頭になるとチャド当局は言っている。ジャンジャウィードは非アラブ系住民の大量虐殺をスーダン西部のダルフール地方でおこなっている。<br />
<span id="index1_photo_2_07">（写真その2）<span class="index1_pic_2_07"></span><!-- /span#index1_photo_2_07 --></span>
　ケニアはスーダンと国境を接する隣国だ。動物たちは自由に行き来し、密猟者たちも同様に移動する。僕がケニアに行った1994年でも、象の密猟者たちとの戦いは危険なものだった。密猟が見つかると重罪になるので密猟者たちは見つかったら逃げようとして銃撃戦になるのだ。そのために動物保護のための団体ケニア・ワイルドライフ・サービスは軍隊のような演習を行っていた。</p>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>
<div id="index1_contents_2">
<p>　象は「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora)」によって保護されている。通称ワシントン条約とか、英名の頭文字を取ってCITES(サイテス)とも呼ばれる。この条約は時々ゆるめられ、量を制限して狩猟が許可されることがある。すると輸出される象牙には特に印が付けられるわけではないので、密猟による象牙も一緒に輸出されるようになってしまう。2002年にも象牙の輸出規制が解かれ、密猟が問題になった。</p>
<p>　なぜCITESがゆるめられるかというと、保護によって象の頭数が増えると畑が荒らされ、アフリカの農民が困るからだという説がある。しかし、ことはそんなに簡単ではない。<br />
　もともとアフリカでの狩猟は槍でおこなわれていた。そんなに大量に野生動物を狩るわけではなかった。そこに白人たちがやってきて銃で猟を始める。そうすればどんな野生動物もいっきょに数を減らすこととなる。そこで白人は猟の許可証を発行するようになった。当然、伝統的な狩りをしていた人たちに許可証が発行されるわけなどない。伝統的な狩りをしていた人たちはいつのまにか密猟者にされてしまう。その結果、狩猟を生活の手段にしていたアフリカの人たちは、狩猟を禁じられて牧畜や農耕をしなければならなくなった。もちろん西洋社会の価値観を受け入れ順応していった人たちもいるが、伝統を重んじ生きようとする人たちもいる。日本における捕鯨問題と同じような状態を強いられることになった。</p>
<span id="index1_photo_3_07">（写真その3）<span class="index1_pic_3_07"></span><!-- /span#index1_photo_3_07 --></span>
<p>　象は生きるために広大な土地が必要だ。もし狭い土地に囲われると、その地域の草木を食い尽くしてしまう。広い大地に順応するよう進化してきたからにほかならない。ところが近年、畑ができ、輸送のために道路ができ、広大な土地はどんどんと細分化されてしまう。象は主要道路を横断せざるを得なくなり、誰かの畑を横切っていかなければならなくなる。その結果、少し頭数が増えると社会問題化されて狩猟が許可される。<br />
　そこで象の保護をする「Save The Elephants」では、現代の技術を使うことにした。象の首に発信器を取り付け、GPSと携帯電話に連動させ、もし象が保護地区から外に出ると保護官の携帯電話に連絡が入り、象を助けに行くようにしたのだ。象は頭がいい。前にも書いたように英語で育てられれば通じるほどだ。保護地区から出ることを何度か注意されればそのことはしなくなるし、群れにその知識が伝われば、群れ全体でしなくなる。</p>
<p>　1994年の滞在中にルワンダのツチ族とフツ族の大虐殺が始まった。80万から100万人が殺されたというこの紛争も、植民地化の際に白人によっておこなわれた差別が元凶になっているという。最初の差別は人が人を殺さなければならないほどひどい差別ではなかっただろう。しかし、その差別が時を経るにつれ、悪循環を生み、肥大化していく。象の問題も、肥大化するような悪循環を断ち切らなければならない。<br />
　象のGPSは携帯電話のネットワークを通じて発信するため基地局が必要になる。象が携帯電話の基地局のそばにいつもいてくれればいいのだが、そうはいかない。ひとのいないような地域に行ったときのためには新たに基地局を作らなければならない。しかし電源を引き、電話回線を引いていたら莫大なお金がかかる。そこで電気がなくても、電話回線がなくても基地局ができるように、太陽電池や風力発電による基地局が発明されたそうだ。これによってアフリカ全土に、もし安価に携帯電話が普及したら、情報手段が整備されることで「暗黒大陸」から開かれた大陸に脱皮する可能性が生まれる。象をきっかけにしてできたこの小さな可能性をどう大きくしていくか、それがこれからの課題となるようだ。象にとっても、人間にとっても素敵な未来になることを祈る。</p>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2009/04/22/141718.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2009/04/22/141718.php</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Apr 2009 14:17:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第六回　象の話　その2　子象の育て方</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第六回　象の話　その2　子象の育て方<span class="index1_title_06"></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2008.09.02</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1_06">（写真その1）<span class="index1_pic_1_06"></span><!-- /span#index1_photo_1_06 --></span>
<p>　犬や猫がそうであるように、幼い動物にはミルクさえあげれば育つものだと思っていた。ところが、象はそんなに簡単ではない。三つのポイントを押さえないと育てることができない。</p>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>
<div id="index1_contents_2">
<p>　第一のポイント。幼い子象はとても繊細なため母親のお腹の下でないとミルクを飲まない。だから母親がいないと餓死する。
<span id="index1_photo_2_06">（写真その2）<span class="index1_pic_2_06"></span><!-- /span#index1_photo_2_06 --></span>
群れに母親の代理となる雌がいれば生き延びることもあるが、母親がいない動物孤児院でどうやって飲ませるのか。毛布を利用していた。毛布を物干しにつり下げて、あたかも母親のように思わせ、その毛布の向こう側からミルクを差し出す。すると子象は安心してミルクを飲むのだ。</p>
<p>　第二のポイント、それはスキンシップ。ある程度大きくなっても子象は仲間を求める。どんなに食べ物を用意しても、仲間がいないと寂しさで食欲を落とし、ついには死に至る。仲間は必ずしも象でなくてもいい。だから飼育担当者は三、四名でチームを作り、四六時中必ず誰かが子象と一緒にいて相手をする。 象は大人になっても水浴びや泥浴びをする。動物園にいる象とケニアの象では色が違うことにお気づきであろうか。象はその土地の土の色になる。それは土を身体に浴びて、強い太陽光線から皮膚を守るためだ。水や泥を浴びることが象にとってのスキンケアなのだ。飼育担当者は子象にそれをさせてあげる。ホースで水をかけたり、時には泥の中で相撲を取ったりする。寝るときも子象と一緒だ。当番制で子象の小屋で寝る。それほど繊細だから新たに孤児の象を見つけると飼育係に慣らすのが大切な仕事となる。どんなに手厚く保護しても、子象が心を開かない限り飼育はできない。せっかく助けても育てられないことも時々ある。</p>
<span id="index1_photo_3_06">（写真その3）<span class="index1_pic_3_06"></span><!-- /span#index1_photo_3_06 --></span>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>
<div id="index1_contents_3">
<p>　以上ふたつのポイントを押さえた上で、はじめて有効な人工母乳の開発に取りかかることができた。母親のいない子象のために、母乳の代わりになるミルクを動物孤児院のダフニー・シェルドリックは研究開発したのだ。開発されるまでは不可能だと言われていた。しかし、何度も試行錯誤ののちに調合に成功する。完全脱脂のスキム・ミルク、米のとぎ汁、ビタミン剤などが入っている。 ダフニーがミルクの調合を見つけるまで、二歳以下の子象は親なしでは、世界中のどんな研究者も動物園も育てることができなかった。それはつまり、何頭もの孤児の子象を育てようとして失敗し、その痛みに耐え続けながらミルクの開発をあきらめなかったダフニーの信念がなければできないことだった。</p>
<p>　ミルクの飲ませ方、スキンシップ、そしてミルクの調合。この三つのポイントを整えてはじめて二歳以下の子象は育つことができる。しかし子象は人間に育てられただけでは立派な象にはなれない。象の掟や言葉を覚えなければ一人前の象として自然の中では生きていけない。</p>
<!-- /div#index1_contents_3 --></div>
<div id="index1_contents_4">
<span id="index1_photo_4_06">（写真その4）<span class="index1_pic_4_06"></span><!-- /span#index1_photo_4_06 --></span>
<p>　象は70程の言葉を使っていると言われている。ある声は水が近くにあることを示し、ある声は敵が近づいてきたことを示す。もちろん人間に育てられればそれらがわからない。言葉だけでなく、様々な作法もあるらしい。孤児だった子象たちはそれらを知らないために象の群れにはなかなか近づけないのだ。だから動物孤児院の飼育係は大きくなってきた象たちを連れて草原に出る。象の群れに出会うとそのそばに行って言葉や作法を覚えるようにうながすのだ。しかし、それは簡単なことではない。何度も繰り返すことでやっと群れに入れてもらえる象が現れる。動物孤児院からはすでに何頭もの象が自然に帰った。</p>
<p>　動物孤児院では象たちに英語で話しかけろと言われた。英語で育てられると英語は理解できるようになるというのだ。ほかの言葉で話しかけられると混乱するという。疑り深い僕は本当かなと思った。あるとき、イッペンジーという名の子象が、何を思ったのか僕に向かって突進してきた。あまりもの勢いに逃げようかとも考えたが思い切って英語で叫んでみた。<br />
「Stop!」<br />
　するとイッペンジーはその場で立ち止まった。<br />
「Go away!」<br />
　そう叫ぶとイッペンジーは踵を返して子象の群れに向かって走っていった。</p>
<p>　人間でも新たに言葉を覚えるのは難しいことだ。三才までに聞いた言葉は覚えやすいことが言語学の研究からわかっている。しかし、ある程度育ったあとで新しい言葉を覚えるのは簡単なことではない。人間がそうなのだから、幼い頃に英語を覚え、大人になってから象の言葉を覚える象はきっと大変なことだろう。それに付き合い続ける動物孤児院の職員たちには頭が下がる思いがする。</p>
<p>　英語から、象の言葉へ。それに対応できる象は確かに頭がいい。そして、その頭の良さと繊細さが象を育てる難しさの原因でもある。頭がいいからこそ仲間を識別し、執着し、繊細であるからこそ母親の温もりを求める。</p>
<!-- /div#index1_contents_4 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2008/09/02/180513.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2008/09/02/180513.php</guid>
        
        
         <pubDate>Tue, 02 Sep 2008 18:05:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第五回　象の話　その1　エレナ</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第五回　象の話　その1　エレナ<span class="index1_title_05"></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2008.05.30</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1_05">（写真その1）<span class="index1_pic_1_05"></span><!-- /span#index1_photo_1_05 --></span>
<p>　1994年、ケニアのツァボ国立公園に行った。目的は一頭の象に会うこと。象の名前はエレナ。龍村仁監督の映画「地球交響曲」に登場する象だ。<br />
　それより半年ほど前、僕は友人とバーにいた。話をしながら隣にたまたま座っていたふたりの女性と仲良くなった。そのひとりが講談社別冊フレンドの編集者だった。酔った勢いで「漫画の原作を持っていったら使ってくれるか？」と聞いたところ、「面白かったらね」と返事をもらう。一週間後、企画案を持って編集部へ行った。その案にエレナのことを書いていた。企画は通り、エレナのいるツァボ国立公園に出張することになった。しかし、出張は決まったものの必ずエレナに会えるわけではない。エレナは野性に帰った象なのだ。<br />
「乾期なら水飲み場を探せば会えるかもしれませんけど、雨期ではほとんど無理でしょう。ツァボ国立公園は、ほぼ四国ほどの大きさがあります」<br />
　現地のコーディネーターからはそう聞かされた。たとえ会えなくてもどんな環境で育ったのかが見られればいいと思い出発する。<br />
　まずはエレナが育てられた動物孤児院(The David Sheldrick Wild Life Trust)に行く。エレナは孤児の象として育てられ、映画「野生のエルザ」にも出演し、有名な象になった。以来、エレナはナイロビで宣伝材料にされ、ストレスで憔悴する。それを心配したのが孤児になったエレナを保護するために捕獲したケニア山自然公園管理官のビル・ウッドレイだった。ウッドレイは以前からの知り合いだったダフニー・シェルドリックのところへエレナを預けることにする。<br />
　ダフニー・シェルドリックはツァボ国立公園で動物孤児院を運営している。ダフニーの夫デイビッド・シェルドリックは1947年ツァボ国立公園の初代園長となった。すると公園内で見つかる孤児の動物をいろんな人が連れてくるようになる。それらをダフニーは育てて自然に帰していった。それが組織化されて動物孤児院となる。たいていの動物はしばらく育てれば自然に帰せたが、象だけは帰すのが難しかった。孤児の象はデリケートでなかなか育たず、育ったとしても自然にはなかなか帰せなかった。なぜなら象には象の文化があったからだ。しかし、どんな困難にもめげずにダフニーは象を育て続ける。二歳以下の象は親がいないと育てられないと言われたが、ついにはそれも可能にした。
</p>
<span id="index1_photo_2_05">（写真その2）<span class="index1_pic_2_05"></span><!-- /span#index1_photo_2_05 --></span>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>

<div id="index1_contents_2">
<span id="index1_photo_3_05">（写真その3）<span class="index1_pic_3_05"></span><!-- /span#index1_photo_3_05 --></span>
<p>　動物孤児院にはたくさんの子象がいた。それは人間の腰より低い象から、ニメートル近くの象までいろいろだ。その象たちが僕に寄ってきて鼻を差し出す。ダフニーは教えてくれた。<br />
「象が鼻を伸ばしてきたというのはあなたに興味を持っているってことよ。挨拶してあげなさい。挨拶はね、鼻の先に口を寄せてふって息を吹きかけてあげればいいのよ」<br />
　僕は両手ですくうようにして鼻先を持ち、そこに息を吹きかけた。<br />
「これでその象はあなたのことを一生忘れないわ」<br />
　まさかと思った。人間だってよほど印象に残った人でなければ子どもの頃に会った人のことを一生なんて覚えていない。するとコーディネーターが言った。<br />
「じゃあ、エレナは僕のこと覚えているかな。10年ほど前、まだここにいたときに一度だけ会っているから」<br />
　翌日、動物孤児院の職員をひとり連れて、ツァボ国立公園内をエレナを探してジープで走った。時々象に出会うが、どの象がエレナかわからない。ところが動物孤児院の職員は見ればわかるという。まる一日走ったが、結局見つからなかった。夕方、丘の上にある動物孤児院にその職員を送って帰ろうとしたら、遠くに象の群れを見つけた。エレナかもしれない。再び職員に車に乗ってもらい、その象のそばまで走っていった。<br />
　遠くの森の中を右から左にゆっくりと行進する象の群れ。 職員は「エレナの群れです」と言った。 国立公園内では車両は道から草原の中に入ってはならない。このまま遠くから見るだけでは実感が湧かない、こんなときのために僕はある練習をしていた。<br />
「エレナーっ、エレナーっ」<br />
　一緒に行ったマンガ家も編集者も、僕がいったい何をしだしたのか驚いた。会ったこともない象を呼び寄せるなんてできるはずがない。ところが象の群れはクルッと方向を変え、こちらに歩いてくる。龍村監督に「地球交響曲」のビデオをお借りして、ダフニーさんがエレナを呼ぶところを何度も聞いて呼び方をまねたのだ。<br />
　エレナは僕たちから二、三メートルのところで止まると、ものすごく低い声で啼いた。あまりの重低音に身体が震えた。<br />
「喜んでますね」<br />
　動物孤児院の職員がポツリと言う。するとエレナは職員に向かって鼻を伸ばした。職員はエレナの鼻を撫でてやる。次にエレナは、すぐ隣にいる僕やマンガ家、編集者を通り越して、車の窓の中にいたコーディネーターに鼻を伸ばした。<br />
「エレナが俺を覚えている！」<br />
　コーディネーターは歓喜に震えた。そのあとで僕らも挨拶してもらった。映像でしか見られなかった一頭の象に、地球の果てで出会うことができた。なんでも忘れていく僕だけど、このときの感激は一生忘れないだろう。
</p>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>

<div id="index1_contents_3">
<span id="index1_photo_4_05">（写真その4）<span class="index1_pic_4_05"></span><!-- /span#index1_photo_4_05 --></span>
<p>動物孤児院(デイビッド・シェルドリック・ワイルドライフ・トラスト)<br />
<a href="http://www.sheldrickwildlifetrust.org/" target="_blank">http://www.sheldrickwildlifetrust.org/</a><br />
映画「地球交響曲」龍村仁公式サイト<br />
<a href="http://gaiasymphony.com" target="_blank">http://gaiasymphony.com</a>
</p>
<!-- /div#index1_contents_3 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2008/05/30/162456.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2008/05/30/162456.php</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 30 May 2008 16:24:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第四回　マウイ島の手作りサンダル</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第四回　マウイ島の手作りサンダル<span class="index1_title_04"></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2008.04.02</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1_04">（写真その1）<span class="index1_pic_1_04"></span><!-- /span#index1_photo_1_04 --></span>
<p>　ハワイ・マウイ島のラハイナ港はむかし捕鯨基地だった。ここから出発する捕鯨船がたくさんの鯨を捕獲し、その脂を搾って売っていた。その名残でこの港からはいまでもホエール・ウォッチングの船が出る。1999年に鯨を見にここを訪れたとき、港の正面にあるマーケットに日本語で「手作りサンダル」と書かれた看板を見つけた。その店に入るとサンタクロースがランニングシャツを着ているようなおじさんがいた。<br />
　少し高くなった台の上に置かれた一人掛けの大きなソファに客を座らせ、その足のサイズを測っていた。足の下に紙を置き、そこに鉛筆で足の形を書き写す。客に対する態度は朴訥で、売ろうとするために言葉を選ぶようなことはない。そこまでずけずけ言ったら悪いんじゃない？　とこちらが心配をしてしまうような物言いだ。だけど完成品のサンダルとおじさんの雰囲気にとても興味を持った。</p>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>
<div id="index1_contents_2">
<span id="index1_photo_2_04">（写真その2）<span class="index1_pic_2_04"></span><!-- /span#index1_photo_2_04 --></span>
<p>「このサンダルは何が特徴なのですか？」<br />
　質問するとおじさんは答えた。<br />
「このサンダルは履いてそこいらを歩けばすぐに良さがわかる。だけど、本当のよさがわかるにはしばらく履き続けた方がいい。そしたら手放せなくなる。20年も前に買った人がいまだに修理に寄越す。新しいのを買ってもらいたいんだが、使い続けることでその良さが膨らむから、商売としてはあまりうまくないが、まあ仕方ないな」<br />
　そして、最近修理に送られてきたというぼろぼろのサンダルを見せてくれた。<br />
「これはマイアミに住んでいる男のだ。これで7年目。5年前までこの近所にいたんだがマイアミに引っ越した。ま、ここまで履いてくれれば職人冥利に尽きるね」<br />
「このサンダルはおじさんが考案したの？」<br />
「いや、昔映画の小道具をやっていてな。そのときに古代のサンダルの作り方を教えてもらったのさ。『ベンハー』とか『十戒』とか一時流行っていたろ。それでその作り方でサンダルを作るようになったのさ」<br />
　その場でサイズを測ってもらい、一足注文した。できあがりはほぼ二ヶ月後、自宅に郵送してもらった。<br />
「革紐は痛いくらいにきつく縛ってしばらく我慢する。そうすると馴染んだ頃には手放せない」<br />
　その言葉通り、このサンダルは夏や暑い地方へ行くときのマストアイテムになった。<br />
　履き始めは皮が硬く、きつく縛られているので足が痛くなる。ところが二、三日我慢していると気にならなくなり、もっと時が経つとサンダルが自分の足の一部のようになってくる。</p>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>
<div id="index1_contents_3">
<span id="index1_photo_3_04">（写真その3）<span class="index1_pic_3_04"></span><!-- /span#index1_photo_3_04--></span>
<p>　現代の靴は自分の足を守ることが最優先で、地面がどうなっていても変わらぬスタンスで歩けるようになっている。しかし、このサンダルは地面の状態が履いているだけでわかる。地面がコンクリートなのかアスファルトなのか、水分を含んでいるのか乾いているのか、表面がザラザラなのかツルツルなのか。つまり、地面と対話するサンダルなのだ。どんな状況でも履いている人間をただ守るような、一方的押しつけ的な靴とは大違い。現代の間違いは環境を無視することで人間だけを守ろうとする態度ではなかろうか。このサンダルは底の皮を通して足の下がどんな状態かを教えてくれる。夏の焼けるようなアスファルトの上をこのサンダルでは歩きたくはない。 一番心地いいのは、しっとりと水分を含んだ暖かい土の上を、自分の重さでへこむのを感じながら歩くことだ。<br />
　このサンダルを履くことはつまり現代の価値観とはまったく別の感覚で生きること。現代の履き物は履いてすぐ使い物にならなければいけない。履きならすような靴は売れないのだ。それから速く歩けないといけない。しかし、このサンダルは底も革製ですから地面のグリップが甘い。雨の日にタイルの上を歩こうものならツルツルとすべってしまう。晴れた日のアスファルトの上でさえ走ろうとすると滑る。そして履くのにちょっと手間取る。足の親指と人差し指の間に革紐を通し、かかとの紐をフィットさせるす。何事にも効率とスピードを求められる現代では使いにくい物なのだ。</p>
<!-- /div#index1_contents_3 --></div>
<div id="index1_contents_4">
<span id="index1_photo_4_04">（写真その4）<span class="index1_pic_4_04"></span><!-- /span#index1_photo_4_04 --></span>
<p>　ところがこのサンダルの生み出すテンポと使い心地に一度慣れれば、都会の真ん中でも風景が変わる。このサンダルのおかげで新宿にいても気分はマウイ。砂浜の波打ち際をゆっくり歩く、そんなテンポと心持ちが似合うのだ。<br />
　履き続けたために四年ほどで左足の底に穴が開いた。2005年、ホノルルマラソンに出場するついでにマウイに寄り、修理してもらった。<br />
「あんたの仕事はなにかね？」 <br />
「ライターです」 <br />
「ほう、アメリカのライターとは違うね。頭を使っている」 <br />
「は？」  <br />
「アメリカのライターはメディアの言いたいことしか書けないから右脳が使えないんだ。だから右足の底がだめになる。左脳ばかり使ってその結果悪い油が右足に出るんだ」 <br /> 
「ほう」  <br />
「ノーム・チョムスキーも原稿を見ればそれがどの雑誌のものかわかると言ってる。ライターが書きたいことを書いているのではなく、メディアのオーナーが言いたいことだけ書かされているからだ。そんな原稿ばかり書いていると右脳がだめになる。あんたはちゃんと考えて原稿を書くんだぞ」  <br />
　サンダルは2008年2月現在、男性用185ドル、女性用が165ドル。サイズが特に大きい場合は超過料金が加えられる。色は三色あり、足形さえ送ればメールでの注文も受け付けている。ただし送料は別。詳細についてはホームページにて。<br />
アイランド・サンダルURL　　　<a href="http://www.islandsandals.com/" target="_blank">http://www.islandsandals.com/</a>
</p>
<!-- /div#index1_contents_4 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2008/04/02/130220.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2008/04/02/130220.php</guid>
        
        
         <pubDate>Wed, 02 Apr 2008 13:02:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第三回　海中出産の島</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第三回　海中出産の島<span class="index1_title_03"></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2007.12.07</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1_03">（写真その1）<span class="index1_pic_1_03"></span><!-- /span#index1_photo_1_03 --></span>
<p>　ロタ島をご存じだろうか？　ロタブルーといわれる海の色が印象的な美しい島だ。サイパン島とグァム島のあいだにある。2006年にロタ島に行ってきた。何年も行きたくて行っていなかった。なぜその島に行きたかったのか。<br />
　友人がその島で海中出産をしたからだ。<br />
　海の中で出産する人はほとんどいない。水中出産でさえ珍しい。なぜ彼女は海中で出産したのか。彼女によればお腹の中にいた赤ちゃんが海で生まれたいと語りかけてきたのだそうだ。<br />
　ぼくのはじめての著作は『胎内記憶』という本だ。七田眞さんと共著でダイヤモンド社から出した。それ以前から出産に興味があった。男なのに出産に興味があるというと不思議がられる。きっかけはベルギーで見たビデオだった。ベルギーのオステンドにある総合病院の産婦人科に水中出産の施設がある。そこのビデオを見て感動した。ビデオでは逆子の赤ちゃんがゆっくりと自分で身体を揺すりながら出てきた。まるでイルカの子供がしっぽから生まれてくるように、足から生まれてきても誰もあわてない。子供は水に出ると母親に抱えられて安心したような表情を見せる。水から出てくるときも穏やかだ。うっすらと微笑んでいるようにも思えた。水から上げられると呼吸を始める。それから臍の緒を切る。普通の出産で見られるように赤ちゃんは泣いたりしない。穏やかな出産になる。穏やかな出産で生まれた子供は性格も穏やかになると言う。衝撃的だった。人間は動物で、動物的感覚に委ねられれば素晴らしい出産になるという事実を突きつけられた。
</p>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>
<div id="index1_contents_2">
<span id="index1_photo_2_03">（写真その2）<span class="index1_pic_2_03"></span><!-- /span#index1_photo_2_03 --></span>
<p>　ロタ島で海中出産した友人は出産場所を探してハワイやバリ島の海辺を見て回ったそうだ。しかし、出産に適した場所が見つからない。あるヒーラーに相談したらロタ島がいいと言われた。出産間近に彼女は夫婦でその島に行き、いい浜辺を見つけテントを張って出産の時を待ち、無事出産した。<br />
　なぜその場所にしたのか何度か聞いたが、ひとがいないことと、いい場所だったからとしか返事は帰ってこなかった。どんないい場所なんだろう？　それを確かめたかった。<br />
　気候はハワイのようにからっとしている。ひとがあまりいない。町に出ても車が少し走っている程度でほとんど誰も歩いていない。しかも時々すれ違う車の運転手がみんな手を挙げて挨拶してくる。はじめはぼくに挨拶しているとは思えなかった。すれ違う車の運転手がみんな手を挙げるので何をしているのか不思議に思った。<br />
　浜辺はどこも穏やかだった。ロタ島はもともとサンゴ礁が隆起してできた島なので、遠浅で、サンゴ礁が島を囲んでいる。だから浜辺には波がほとんど立たない。<br />
　島には医者が数名しかいないそうだ。彼女はたったひとり見つけた医者に何かあったら助けてくださいと言ったそうだが、産婦人科医でもないそのひとりの医師になぜ自分と赤ちゃんの命を委ねられたのか。ロタの浜辺でしばらく考えてやっとわかる。彼女は医師に命を委ねたのではない。ここにある自然のリズムに身を委ねたのだ。太陽が昇って沈むこと。潮が満ちて引いていくこと。月が満ちて欠けていくこと。<br />
　彼女にはぼくのなかにある、ある思いがなかったのだ。「出産は危険なことだ」というその思い。医療がないと出産の成功率は落ちるという事実が、より安全な出産を求めてきわめてもろい何かを忘れさせている。たしかに、医療のおかげで出産の成功率は上がった。次のステージはきっとその質を上げることだろう。質を上げるために必要なことが自然のリズムなのではないか。病院や医師のスケジュールに合わせて薬物によって生まされる出産は、確かに出産の成功率を上げたかもしれないが質は上がったのだろうか？　
</p>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>
<div id="index1_contents_3">
<span id="index1_photo_3_03">（写真その3）<span class="index1_pic_3_03"></span><!-- /span#index1_photo_3_03 --></span>
<p>　自然の花は咲くときに咲く。木になる実は熟して落ちる。人間もそうあるべきなのではないか。<br />
　ロタ島の青い海と、そこを吹き渡る風は自然のリズムを思い出させてくれる。空には太陽。雲が流れ、風が吹く。天候によって変わる海の色。夜になれば月が浜辺を照らす。その当たり前のはずの風景が出産の後押しをしてくれる。<br />
　サンゴ礁に守られた穏やかな海と、手つかずに近い自然が、人間も地球の上で宇宙のリズムに揺られて暮らす動物であることを深く思い出させてくれた。
</p>
<!-- /div#index1_contents_3 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2007/12/07/151850.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2007/12/07/151850.php</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 07 Dec 2007 15:18:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第二回　敵として出会い、友達になる</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第二回　敵として出会い、友達になる<span class="index1_title_02"></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2007.08.21</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1_02">（写真その1）<span class="index1_pic_1_02"></span><!-- /span#index1_photo_1_02 --></span>
<p>　戦争状態のなかで、自分の家族や親戚を殺した敵国の人と出会うことがどんなことか想像できますか？　祖国の人たちが敵国の人は悪い人ばかりだと伝えているなかで、自分の目で相手がどのような人かを判断することがどんなことか想像できますか？<br />
　2003年、「第1回イスラエル・パレスチナ・日本の子供たちによる親善サッカー大会実行委員会」は、イスラエルとパレスチナから子どもたちを招待し、日本の子どもたちとサッカーをしてもらうことを企画しました。そこでの対話を通じて平和への道を探るため、戦争状態にあるふたつの国の子どもたちに仲良くなる場を提供したのです。翌年からはNPO法人となりピース・キッズ・サッカー( <a href="http://www.peace-kids-soccer.com" target="_blank">http://www.peace-kids-soccer.com</a> )と改名し、同様の活動をおこない続けています。私はこの活動を大変素敵なことだと思い、2003年からお手伝いしています。<br />
　みなさんは、イスラエルとパレスチナの関係について想像したことがあるでしょうか？　イスラエルとパレスチナの子どもたちは分離壁などで最近では会うこともできません。イスラエル人が見るパレスチナ人はテロリスト、パレスチナ人が見るイスラエル人は兵士ばかりで、一般の人たちがどのように暮らしているかを実感できなくなっています。互いの国や地域では相手が悪い人ばかりと言われがちですが、実際に会ってもらうと悪い人ばかりではないことがわかります。成田空港に着いたイスラエル・パレスチナの子どもたちは、互いに仲良くなっていいものか戸惑いながら関係を作り始めます。そして、一週間程度の合宿のあと、別れを惜しむようになるのです。
</p>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>
<div id="index1_contents_2">
<span id="index1_photo_2_02">（写真その2）<span class="index1_pic_2_02"></span><!-- /span#index1_photo_2_02 --></span>
<p>　チャンスさえあれば、誰でも良い友だちなれるかもしれません。子どもたちの国境を超えた友情について、エピソードを一つご紹介しましょう。2004年夏の大会が終わり、子どもたちが帰国したのちの8月31日、イスラエル南部のベールシェバで2台のバスが爆発し16人が亡くなりました。同年3月と4月に指導者ヤシン師とランティシ氏をイスラエルが殺害したことの報復だと、ハマスが犯行声明を出しました。この事件の起きたベールシェバは来日したイスラエルの子どもたちが住む場所に近かったので、パレスチナの子どもが同行してくれたNGOを通してイスラエルの友達の安否を確かめました。問い合わせの電話を受けたイスラエルの子の母親は、パレスチナの子どもが自分の子どもの心配をしていることに感動し絶句したそうです。
</p>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>
<div id="index1_contents_3">
<span id="index1_photo_3_02">（写真その3）<span class="index1_pic_3_02"></span><!-- /span#index1_photo_3_02 --></span>
<p>　昨年2006年にはピース・キッズ・サッカーはそのノウハウを提供し、8カ国10地域から子どもたちを招待してサッカー大会をおこないました。優勝戦は沖縄と中国のチームで争い、中国が優勝しました。ゲームのあいだ、初戦で沖縄に負けたボスニア・ヘルツェゴビナが盛んに沖縄に声援を送っていたのが印象的でした。<br />
　試合前は各国互いにライバルです。なかなか国を越えてとけ込むことはできません。でもひとたび試合が終わると子どもたちは途端に関係を作り始めました。友だちになってしまうのです。提供されたＴシャツや帽子に互いの名前を書き合い、いつかまた会おうと約束して別れたのです。<br />
　しかし、ハマス政権下で出国したパレスチナの子どもたちはイスラエルの子どもたちと親しくなるわけにはいきませんでした。それは子供の意思というよりは、付き添いの大人の都合でした。
</p>
<!-- /div#index1_contents_3 --></div>
<div id="index1_contents_4">
<span id="index1_photo_4_02">（写真その4）<span class="index1_pic_4_02"></span><!-- /span#index1_photo_4_02 --></span>
<p>　別れの日、パレスチナの子どもたちと関西国際空港近くの高層ビルから大阪の街を眺めました。海を見たことのない、破壊された街しか見たことのない彼らは、その景色に息を飲みました。<br />
「平和っていいだろう？」<br />
　少し酷かなとは思いましたが聞いてみました。するとひとりの男の子が応えました。<br />
「僕らが平和な国を作ります」
</p>
<!-- /div#index1_contents_4 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2007/09/23/225933.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2007/09/23/225933.php</guid>
        
        
         <pubDate>Sun, 23 Sep 2007 22:59:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第一回　バリ島のお葬式はなぜ明るいのか</title>
         <description><![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index1_top">
<h3>まるい地球を駆け抜けろ<span></span></h3>
<h4>第一回　バリ島のお葬式はなぜ明るいのか<span></span></h4>
<p>文・写真：つなぶちようじ ｜ 2007.06.29</p>
<!-- /div#index1_top --></div>
<div id="index1_contents_1">
<span id="index1_photo_1">（写真その1）<span></span><!-- /span#index1_photo_1 --></span>
<p>　
あなたは「生まれ変わり」を信じますか？<br />
　ご縁があってバリ島のお葬式に参列しました。お葬式というと日本では暗く重苦しいものですけど、バリ島のお葬式は違います。なにしろ誰かにこれからお葬式に行ってきますと言うと「Enjoy the ceremony」と言われるのです。最初に聞いたときは「は？」と聞き返してしまいました。実際、お葬式に参列している人たちはみんなにっこりと微笑んでいたりするのです。<br />
　バリ人は人が生まれ変わると信じています。だから、生まれて数日すると子供をお坊さんのところに連れて行き、その子が誰の生まれ変わりかを聞くのです。死は取り返しのつかないものではなく、繰り返される人生の節目のひとつでしかないのです。
</p>
<!-- /div#index1_contents_1 --></div>
<div id="index1_contents_2">
<span id="index1_photo_2">（写真その2）<span></span><!-- /span#index1_photo_2 --></span>
<p>　参列したお葬式でもう一つ驚いたことがありました。亡くなった方のお孫さんの成人式を一緒にしたのです。バリ人は成人式として削歯儀礼をおこないます。犬歯を削ることではじめて人間になるそうです。犬歯があるあいだは動物と同じだとか。輪廻転生を信じているからこそ、お葬式も成人式も同じ、連綿と繰り返される通過儀礼のひとつなのです。成人式がめでたいのと同じく、お葬式もめでたいのです。<br />
　バリ島のお葬式ではたくさんの人が関わるので、日本人にとってはまるでお祭りです。今回もいろんな儀式が次から次へと行われ、結局五日間続きました。これだけ手厚く葬ってもらえれば誰でも成仏するでしょう。祭りの、いやいやお葬式の、クライマックスである四日目が「プレボン」と呼ばれる火葬式でした。その日は朝からいろいろな読経が続き、昼頃、可能な限り高い塔のような御輿にご遺体を載せて村を練り歩きます。男たちに担がれた御輿と千人にも及ぶ長い行列は寺院の広場まで移動し、そこでご遺体は牛の棺に載せ替えられて荼毘に付されます。火葬式は最後に海で散骨するまでまるまる1日かかりました。まさに人生最大のイベントです。
</p>
<!-- /div#index1_contents_2 --></div>
<div id="index1_contents_3">
<span id="index1_photo_3">（写真その3）<span></span><!-- /span#index1_photo_3 --></span>
<p>　僕がはじめてバリ島のお葬式を見たのは2004年3月でした。その年の1月に母を亡くし、バリ島に来たら盛大なお葬式を見ることができました。<br />
　日本に帰国し、夕焼けを眺めながらバリ島のお葬式のことを思い出していると、ふとバリの知人がかつて話してくれたことを思い出しました。<br />
「僕の前世は曾お祖父さんなんです。だから曾お祖父さんの家に行くととても気持ちがいい」<br />
　それを聞いたときは本当かな？と思いました。輪廻転生の話しを信じ切れずにいました。いまでも信じ切っているわけではありません。しかし、それを思い出して、輪廻転生の価値を悟りました。<br />
「もし母が生まれ変わったら、僕はその子を大切にするだろうな」<br />
　母には苦労ばかりかけました。前日まで元気だったのに、ある日ぽっくりと死にました。残された僕は母から受けた恩をどうやっても返すことができなくなり、悲しい思いをしました。このことと「曾お祖父さんの家に行くと気持ちいい」という言葉がつながったのです。<br />
　輪廻転生するという物語を受け入れることで、人は世代を超えた恩のやりとりを可能にするのです。
</p>
<!-- /div#index1_contents_3 --></div>
<div id="index1_contents_4">
<span id="index1_photo_4">（写真その4）<span></span><!-- /span#index1_photo_4 --></span>
<p>　僕の知人は曾お祖父さんの生まれ変わりだから、その家に行くと恩を返したいと思っている人たちがいろいろとしてくれます。僕は母に恩を返すために生まれ変わった子にせっせと何かするでしょう。恩返しする側もうれしいし、される方もうれしいのです。<br />
　バリ島の明るいお葬式は、きっとこの善意の連鎖が支えているのでしょう。
</p>
<!-- /div#index1_contents_4 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]></description>
         <link>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2007/06/29/140000.php</link>
         <guid>http://www.lohas.co.jp/essay/tsunabuchi/archives/2007/06/29/140000.php</guid>
        
        
         <pubDate>Fri, 29 Jun 2007 14:00:00 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>
