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   <title>おとなの能書き | 連載エッセイ</title>
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   <title>第二十四回　日本人の心得　‐最終回‐</title>
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   <published>2009-06-15T04:00:00Z</published>
   <updated>2009-06-15T05:43:29Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第二十四回　日本人の心得　‐最終回‐ 文：イッコー・オオタケ ...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第二十四回　日本人の心得　‐最終回‐<span class="index2_title_24"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.06.15</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_24">（写真その1）<span class="index2_pic_1_24"></span><!-- /span#index2_photo_1_24 --></span>
<p>　最近テレビでかつての黒澤映画のリバイバル作品を観る機会があった。時代劇で前評判も高く、出演者も現代人気俳優たちによる豪華オールスターキャストということだった。</p>
<p>　なんといっても黒澤作品である。元々オリジナルがすばらしく、完成度の高いストーリーだ。面白くないわけがない。<br>
　良くできていた。でも……しかしながら観終えて僕には曰く言い難い違和感が残った。<br>
　何だろう、何かが違う……というか、何かが足らない気がする。<br>
　はっとした。……「顔」が違うのだ。<br>
　彼らの顔はどうメイクを凝らしたところでもう日本人の武士の顔じゃないのである。<br>
　当世の人気俳優である。男でも八頭身の小さい頭に細い顎、手足は長くやや撫で肩な身体つき。まぁ沖田総司とか眠狂四郎ならそれでも恰好はつくかも知れないがここでは野武士の設定だ。<br>
　オリジナルを知っているという先入観はあると思う。<br>
　ただ、それでもだ、やはりここは野武士らしい風貌、風格というものを見せてほしいのだ。</p>
<p>　このことがあって思い出した。黒澤明は晩年に何かで「七人の侍」の話になって、「もう二度とこんな映画は撮れない」と言ったという。何故かと問われ「だってもうこういう侍ができる顔の役者がいないじゃないか」と。<br>
　別に今の俳優が不満なわけじゃないし、何でも昔が良かったと言うつもりもない。<br>
　ただ時代劇ばかりでなく昔の映画やドラマなんかを観ると若者でもみんなちょっとびっくりするくらい老け顔なのに驚く。これは時代背景や生活スタイルの違いに因るところが大きいのだとは思うのだが。<br>
　でもだんだんと日本人の顔が侍に似合わなくなるっていうのも何か寂しい話である。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　話は変わるが僕は浅草で長く商売をしていて場所柄、外国人観光客も多いのだが最近ちょっと驚くことがある。<br>
　外国人客が来ると僕はカタコトの英語で話しかけるのだが、僕が身振り手振りで四苦八苦しながら話しかけると、流暢な日本語が返ってきてびっくりさせられることがたまにある。それも相手は真っ青な瞳にブロンドヘアのどう見ても日本語ができるようには見えない、とんでもない美女だったりする。<br>
　それも最近の、モノを知らない日本人の大人なんかよりも遥かに日本文化や伝統芸能に詳しいのだ。こっちが訊かれても答えられないような質問までされてドギマギしたこともあった。
きっと日本人と国際結婚していたり、子どもの頃から日本で暮らしていたりするのだろうがこんなことは、ひと昔前なら考えられないことだった。</p>
<p>　あるTVドキュメンタリーで知ったのだが、かの世界に名だたるファッションブランド『シャネル』の日本法人の社長もそんなひとりだ。<br>
　リシャール・コラス氏というれっきとしたフランス人なのだが、この人の日本通はまさに筋金入りだ。生半可な日本人にはとても太刀打ちができないくらい“日本人の心”を理解している人物と言っていい。<br>
　学生時代に日本を旅して日本と日本人が好きになり『シャネル』に就職して後、再び日本を訪れ日本人と結婚し鎌倉に純日本家屋を建てて暮らしている。<br>
　畳の部屋に布団で眠り、朝食にはクロワッサンよりも納豆と塩ジャケを好む。今では出張でパリの本社に行くとホームシックで早く日本に帰りたくなるという。<br>
　しかしこの人の凄いところはまだ他にある。<br>
　『シャネル』が銀座に自社ビルを建設した折、この建築に携わった人、元請けの建設会社ばかりでなく下請けの工事関係者、職人の一人ひとりに至るまでその名前をビルの入り口の記念プレートに刻んだのだそうだ。<br>
　その理由を問われて彼はこう言う。<br>
「だってこの工事をしてくれた人が家族を連れて銀座に遊びに来た時に子どもに見せてあげられるじゃない」<br>
　こうした思いやりの気持ちこそが「日本人らしい心配り」なのだと彼が話すのを聞いて、僕は生粋の日本人として誇らしく思うよりも恥ずかしいキモチになった。</p>
<p>　いったい今どれだけの日本人にこうした心配りができるだろうか。<br>
　日本人がいつの間にかすっかりどこかに置き忘れてしまった“本当に大切なもの”。それをめぐり巡ってひとりのフランス人から教えられることになるとは……。</p>
<span id="index2_photo_2_24">（写真その2）<span class="index2_pic_2_24"></span><!-- /span#index2_photo_2_24 --></span>
<p>　思えば日本人の風貌も気質もひと昔以前とは大きく変わったように思う。スポーツや芸能の世界でも今や世界の第一線で活躍する日本人も数多く見ることができる。<br>
　その一つの要因には日本人や日本の心、つまり精神性をも含めた日本の文化というものが広く世界の人々に理解されるようになったことも大きいと思われる。<br>
　でも肝心の日本人自身はどうなのだろう……。<br>
　拝金主義や自分たちに利があれば他人はどうでもいいという風潮がまかり通る今の日本で、道徳心や他人への心配り、謙虚さや勤勉性といった古来日本人が大切にしてきた高い精神文化は今や急速に失われつつあるように思う。</p>
<p>　風貌やスタイルが日本人離れするのは仕方のないことだとしても、やはり失ってはならない“本当に大切なもの”がある。<br>
　もはや昔ながらの生粋の日本人は絶滅危惧種なのだろうか。日本の心を外国人から教えられるというのもそう陳腐な話じゃないのかもしれない。</p>
<p id="last">　さて、`07年から二年間にわたり連載してきた「おとなの能書き」だが表題のように今回をもってひと区切りということに相成った。<br>
　ロハスという本来のテーマから脱線を繰り返し、さんざんと好き勝手なことを書かせていただいた。ここでご愛読いただいた読者の皆様に心からお礼を申し上げたい。<br>
　またいろいろと我がままを聞いていただいた『ロハスサン』スタッフの皆様、二年間本当にお世話になりました。<br><br>
<span class="f_right">〈了〉</span></p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
   </content>
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   <title>第二十三回　お茶の水 カルチェ・ラタン</title>
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   <published>2009-05-13T07:04:48Z</published>
   <updated>2009-05-13T07:07:19Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第二十三回　お茶の水 カルチェ・ラタン 文：イッコー・オオタケ...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第二十三回　お茶の水 カルチェ・ラタン<span class="index2_title_23"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.05.13</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　最近はめっきり訪れる機会が少なくなってしまったが、僕にとって神田、お茶の水という街は中高大と学生時代の多くを過ごした街で、この広い東京の中でも特別な場所だ。<p>
<p>　当時の僕らの活動エリアを座標にしてみると、縦軸が山手線の上野から神田あたりまで、横軸がJRの黄色い電車が走る秋葉原からお茶の水、水道橋あたりだろうか。<br>
　僕は青春期の大半をこの一帯の中で過ごしてきた。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　今も忘れられない光景がたくさんある。<br>
　秋葉原の街が今のようになるずっと昔、当時の電気街の裏通りにあった中学校の帰り道、僕は友達と連れ立って電気店を素見(ひやか)し、当時は珍しかった大きなレコードショップでLPを漁り、たくさんのアーティストたちを試聴した。</p>
<p>　今も頭に焼き付いているシーンが、あの長嶋茂雄の引退試合を電気街のショーウインドゥの中のテレビで視た記憶だ。<br>
　学校からの帰路、電気街を見渡してみると街のいたる店の前に鈴生りの人垣ができていた。
テレビを見つめる大人たちの中にはミスタージャイアンツの最後の雄姿に歓声を上げる人、引退式で目を赤くして泣いている人も大勢いた。<br>
　後にも先にもあんな光景を見たのは初めてだった。</p>
<p>　最近大宮に移設された「鉄道博物館」も近年まではこの近隣にあった。<br>
　正確にはかつてあった中央本線「万世橋駅」の駅舎を利用して造られた施設で館内に改札や階段の跡が残っていたり、上部にはプラットホームの基礎部分があって、現在でも中央線の神田~お茶の水間の大きなカーブに沿ってその遺構を見ることができる筈だ。</p>
<p>　この万世橋の中央線の線路に沿って坂を登って行くとほどなく、ニコライ堂を横目にお茶の水の聖橋(ひじりばし)にさし掛かる。<br>
　言うまでもないが、この辺りは多くの大学、専門学校、予備校などが櫛庇(しっぴ)する学生街で日本のカルチェ・ラタンと云われる所以だ。</p>
<span id="index2_photo_1_23">（写真その1）<span class="index2_pic_1_23"></span><!-- /span#index2_photo_1_23 --></span>
<p>　お茶の水の駅の並びに今も在るが美術画材ショップで有名な「檸檬」という店の並びに同じ名の喫茶店が在った。<br>
　高校生の頃、かのインベーダーゲームが大流行した。下校時、僕らはこぞってこの店に通って覚えたてのタバコをふかしながらピコピコとゲームに興じたものだった。<br>
　思えば僕らはここで総額いくらの百円玉を供出したことだろう。<br>
　お茶の水のスクランブル交差点を出て右に向かえば、銀杏並木にアテネフランセというまさにお茶の水カルチェ・ラタンを味わえる絶好のロケーションなのだが残念ながら僕らはあえて別の道を選んだ。</p>
<p>　交差点から駿河台下に向かって坂を下るとそこにはたくさんの楽器店が居並ぶ。<br>
　当時のフォーク・ニューミュージックブームに煽られて、ここで僕らはギターの洗礼を受けることになる。<br>
(余談になるがこの「ニューミュージック」なるコトバ、誰のネーミングなのか知らないが、当時からキライだったけど今聞いても最低のネーミングだと思う)</p>
<p>　もちろん素見しである。マーチンやオベーションといった憧れの高級ギターを僕らは腕組みして眺めるしかなかった。<br>
　神田駿河台は何と言っても本の街である。コミックから難解な哲学書までありとあらゆる書物が揃っている。<br>
　古本屋も多く、間口の狭い店の奥で、埋もれた本の隙間から不機嫌そうなオヤジさんが客に睨みを利かせている。どの店も店それぞれに独自の匂いと存在感を放っているのが判る。<br>
　この頃に書店通いをしたことが後になって大いに役立った。<br>
　僕は後に広告企画の仕事に就いたのだが、どこの書店がどの分野に強いといった情報はなんとなく頭に入っていて立案の資料探しで手間取ったことはまず無かった。</p>
<p>　学生時代は駿河台下に今も残る「人生劇場」という名のパチンコ屋に通い詰めた。当時からなんとステキな店名なのだろうと思っていた。今でもこれに勝るパチンコ屋の名前は空前絶後じゃないかと思う。<br>
(ぜひとも「ニューミュージック」の名付け親に見習っていただきたいものである……)</p>
<p>　ここは当時としては景品の種類が豊富で景品棚にはちょっとした書店をはるかに凌ぐくらいの本が並んでいた。それに出玉の交換比率がいいことも魅力だった。<br>
　僕らはここの景品で洋モクの味を覚えたのだった。<br>
　パチンコにいそしんでお腹が減ると「いもや」へ行く。この店はトンカツ、天丼屋とカレー屋に分かれていてどっちもめちゃくちゃに安くてボリュームに溢れる貧乏学生が泣いて喜ぶような店だ。</p>
<p>　今はだいぶ数が減ったようだが喫茶店も珈琲一杯でねばれる店がいっぱいあった。<br>
　コーヒーショップと喫茶店には明確な区別がある。喫茶店にはおいしい軽食メニューが揃ってなくてはならない。<br>
　中でも「さぼうる」は今も残る名店だ。ここのナポリタンは本当に旨かった。</p>
<p>　当時は大学の校舎もたくさん在ったが今では中央大、日大など多くが都下に移転して行ってしまった。<br>
　ただやはり学生街の佇まいみたいなものは今も残っていて、そのことにちょっとほっとする。<br>
　それと同時に感じるのは、この街が昨今の多くの街がそうであるように大資本とそのテナントに委ねられた商業施設じゃなく、今も個人商店や中小企業の店舗が街の骨格を形成していることだ。</p>
<p id="last">　僕にはそれが嬉しいのだ。街が大資本に支配されていない、自由で大らかな雰囲気といい意味の不揃い感がとても気持ちいいんである。<br>
　しかしながら、このことこそが学生の街『お茶の水カルチェ・ラタン』の面目躍如と言えるのじゃないだろうか。<br>
　願わくばこの佇まいがいつまでも失われることのないように、と僕は祈らずにはいられない。</p>
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<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
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   <title>第二十二回　花冷え…</title>
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   <published>2009-04-07T03:08:01Z</published>
   <updated>2009-04-07T03:08:35Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第二十二回　花冷え… 文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.0...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第二十二回　花冷え…<span class="index2_title_22"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.04.07</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　例年より早い開花宣言が出て、やっと本格的な春の到来を期待した途端に全国的な強い寒波の襲来でお花見気分はなんとなく宙に浮いたままで腰の落ち着かない今日この頃だ。</p>
<p>　昨年来の全世界的な大不況、金融危機の影響下で日本も長く暗い気分に覆われている。<br>
　僕も商売を生業(なりわい)にしているので肌身に沁みてよく分かるが、昨年秋以降の消費の落ち込みはこれまで前例の無いほど酷い状況だった。<br>
　それだけに暖かい春の陽気に包まれて人々が活動的になる桜の時季を多くの人々が待ち望むのも無理からぬ話しだ。</p>
<p>　僕は宴会もどきのガヤガヤした花見は御免こうむりたいが、静かに花を眺めるのは大好きだ。特に好きなシチュエーションとしては夕刻にひと雨あった後の霞みの中に浮かぶ夜桜は何とも例えようもなく美しい。<br>
　僕にとってはこれが桜のベストシーンである。<br>
　ここは一番、桜といっしょに景気にもパッと明るい花を咲かせてもらって、落ち込んだ気分も盛り上げて欲しいものである。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　ところでこの百年に一度などと言われる「大不況」、いや専門家の間ではこれは「大恐慌」だ、とも言われているけれど、アタマの悪い僕にはどうもよく解らない。<br>
　何の前触れもなく、一体何でこんな「大恐慌」なんてモノが突然降って湧いてきたのか、ということだ。<br>
　つまり原因にまったく実感が伴わないのである。多分これは多くの方が思っていることなのじゃないだろうか。</p>
<p>　第一にこれは本来、日本には何の関わりもないところから発生しているのである。<br>
　別に戦争や大災害があった訳でもなく、日本の大企業や銀行が倒産した訳でもないのだ。<br>
　発生源は米国の金融機関が煽った多額のマイホームローンの焦げ付きだ。そこにカネのにおいを嗅ぎつけて集まったヘッジファンドやら金融、証券会社が寄ってたかってウソ臭い“金融商品”に仕立て上げて世界中にバラ撒いた。<br>
　その結果に世界中の人々が翻弄(ほんろう)されているというのがこの「大恐慌」の正体だ。</p>
<p>　従って普通にマジメに働いている人たちには一切無関係な話しなのだ。何でこんな訳の解らんモノに世界中の人々が振り回されなきゃならないのか。<br>
　なんともバカげた話ではないか。<br>
「グローバル経済」なんぞという言葉がマスコミにもてはやされてきたが、よくぞ言ったものである。<br>
　なるほどそういうことか…とこれでやっとその意味が理解できた。</p>
<p>　事の本質は目に見えないカネが更に莫大なカネを生む経済活動に躍起になって地道な技術や生産労働を軽視する現代の経済システムにあるのだ。<br>
　実態の無いモノに投資する金融資本主義というものはマーケットが小さい内はともかく、これだけ世界的に規模が膨らんでくるともう成り立たないのじゃないかと思う。<br>
　負のしわ寄せはすべて「金融商品」とは縁のない生産労働で生計をたてる人たちや貧しい人々に回ってくる。<br>
　つまり金融資本主義はもう寿命が尽きたと言っていい。</p>
<span id="index2_photo_1_22">（写真その1）<span class="index2_pic_1_22"></span><!-- /span#index2_photo_1_22 --></span>
<p>　話は変わるがこれとは反対に寿命が尽きたら困る問題もある。<br>
　ソメイヨシノである。<br>
　日本の代表的な桜のソメイヨシノには寿命がきているというのである。これは看過出来ない大問題だ。みんな大好きな「お花見」が出来なくなってしまうことになる。</p>
<p>　これはどういうことかというと桜には色々な種類があるのだが、そもそもソメイヨシノという桜は原種ではない。<br>
　確証はないらしいが江戸時代の後期にオオシマザクラとエドヒガンという種を人工的に交配させて作ったという説が有力のようだ。<br>
　ちなみにソメイヨシノの語源は現在の東京駒込のあたりが染井村と呼ばれていた頃、造園師や植木職人たちの集落が多くあってこの人たちが接ぎ木の手法でこの新種を作ったという説によるものだ。<br>
　寿命についても植物学者による通説らしいが「ソメイヨシノの６０年寿命説」というのがかなりの信憑性をもって語られている。<br>
　現在、日本国内の桜の約８割がソメイヨシノなのだそうだ。<br>
もちろんこれがいっぺんに枯れる訳ではないらしいが、多くの桜の名所とされる場所の桜は戦勝記念や復興の象徴として昭和１０年代～２０年代に植えられたもので、樹勢の衰える時期にさしかかっている。</p>
<p>　そもそも人工交配種のソメイヨシノは原種に比べて寿命が短く、これに大気汚染や環境問題の影響もあってあまり手入れもされないままに植えっぱなしの状態が続いて樹木の体力が弱まっているのだという。<br>
　実際、専門家が東京の桜の名所「千鳥ヶ淵」の桜を調べてみるとそのほとんどに病虫害に侵されるなどの老朽化が現れていてこのままいくと数年先には花を咲かせなくなってしまう状況が危惧されているようだ。</p>
<p>　いやはやこれは困った問題だ。<br>
　毎年毎年、満開の桜が咲くのが当たり前のように思ってはいけない。桜が美しい花をつけるのには地道な手入れと周辺環境を整えねばならない。<br>
「驕る平家は久しからず」である。</p>
<p id="last">　戦後ワシントンに友好の証しに贈られて今では多くの米国人に愛されているというソメイヨシノにも蕾みがこぼれはじめる頃だ。<br>
　米国を基軸とするグローバル経済の在り方にもそろそろ寿命が訪れつつあるような気がしてならない。</p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
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   <title>第二十一回　春の贈りもの</title>
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   <id>tag:www.lohas.co.jp,2009:/essay/otake//13.182</id>
   
   <published>2009-03-09T09:50:03Z</published>
   <updated>2009-03-09T09:32:45Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第二十一回　春の贈りもの 文：イッコー・オオタケ ｜ 2009...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第二十一回　春の贈りもの<span class="index2_title_21"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.03.09</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_21">（写真その1）<span class="index2_pic_1_21"></span><!-- /span#index2_photo_1_21 --></span>
<p>　出がけにキュッと頬を刺すようだった朝の空気が日ごとにやわらかくなり、三寒四温を肌で感じられるようになる頃になってきた。<br>
　大方の日本人が、この時季になると何とはなしに気持ちが晴れやかな気分になるのは、春を心待ちにする思いが農耕民族としてのDNAに深く刻みつけられているせいなのだろうか。<br>
　特にある程度年齢を重ねてくると、肌状態や体調の変化などからも季節の変化にかなり敏感になる。兎にも角にも日本人が一年で一番喜びを感じる時季は春の訪れに違いないだろう。</p>
<p>
　春は生命に息吹きをもたらし、生きとし生けるものに元気を与えてくれる。<br>
　生粋の日本人気質の僕は今から本格的な春の到来が待ち遠しくてならない。<br>
　今年のように昨年来の全国的な不況や雇用不安で暗い話題ばかりの季節が続いただけに尚更である。
</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　ただ、甚だ個人的な話で恐縮なのだが、今年の春は今までと違うちょっと厄介な問題が発生してしまった。<br>
　…グスッ。そう読者の皆様も多くが悩まされているであろう、あの花粉症がここまで耐えてきたのについに、とうとう吾が身に発症してしまったのだ。<br>
　日差しが暖かいある朝、表に一歩出た途端、鼻の奥に何かムズムズッときて、くしゃみの四連発に見舞われた。何しろこれまでに経験がないもので初めは、<br>
「な、なんだ一体こりゃ…」という感じで風邪でも引いたのかと思っていた。<br>
　歩き出すとさらにくしゃみが出て、今度は鼻水が止まらない、更には目まで痒くなってきてようやくのこと、<br>
「…これって、花粉症？」という文字が頭に浮かんできたのだった。
</p>
<p>　まぁ幸いなことにまだそれほど劇症ではなく、重症の人に訊けば「まだまだ初心者レベル」らしいのでひと安心したのだが、話によると後発の人ほど重症になる場合が多々あるらしく、これから春本番を目前に今は恐々として不安な毎日を過ごしている。
</p>
<p>　現代の日本国内での花粉症の罹患率がどれほどのものか詳細は知らないが、この時季のドラッグストアの棚に並ぶ膨大な花粉症対策グッズの商品群を見ればいかに多くの人たちが悩まされているか容易に想像がつく。<br>
　今や国民病とも言える花粉症だが、考えてみれば僕らがまだ子供の頃は花粉症なんて聞いたこともなかった。<br>
　僕が就職してまだ間もない頃、春先になると周囲に風邪でもないのにグシュングシュンする人たちが目立ち始めて、それからは毎年、この症状に見舞われる人が眼に見えて増えていった。
</p>
<span id="index2_photo_2_21">（写真その2）<span class="index2_pic_2_21"></span><!-- /span#index2_photo_2_21 --></span>
<p>　これほど花粉症が蔓延したのはやはりそれなりの理由があるようだ。<br>
　ご存じの通り、巷の花粉症キャリアの多くはスギやヒノキ花粉へのアレルギー症状だ。<br>
　医療関係者によれば、戦後数十年を経て日本人の生活スタイルや環境・衛生面の変化というのがもちろん大きな原因のひとつであることは確からしい。<br>
　多くが風呂付の部屋に住むようになり、掃除洗濯にも便利な家電製品が次々出現する。トイレは水洗が当たり前、挙げ句にはオシリまで洗ってくれるようになった。<br>
　社会が発展し生活が豊かになると人は必要以上の、少しでもキレイな、清潔な生活環境を求めるようになる。
</p>
<p>　ところが人の身体のしくみというのは実に複雑精緻の上に成り立っているもので、有史以来経験のない清潔な環境に人体は適応していない。ある程度の雑菌や寄生生物との共存を前提に身体機能が成立しているのである。<br>
　本来なら危機回避の機能であるはずの免疫が過剰に反応して自虐作用を起してしまう。
これが現代病として蔓延(はびこ)る花粉症の一因になっているのは事実である。
</p>
<p>　ただしもう一つ、我々自身の問題とは無関係な大きな原因をもたらしている犯人がいるのである。<br>
　それは日本国国家の国家事業だ。<br>
　太平洋戦争後の復興事業、そして高度成長に至る経済発展の過程で日本は莫大な量の森林資源を伐採、ほぼ無計画なままに資源利用をしてきた。<br>
　当然の話ではあるが、山に木が枯渇すれば環境が壊れそのまま放置すれば自然災害にもつながる。そこで行政は大量伐採された場所へ成長が速く手間の掛からない「杉の木」を大量に植林してきたのだ。<br>
　この影響で日本の森林地帯に「杉林」が文字通り林立することになった訳だ。<br>
　木材として切り出した広葉樹の森林の伐採地に、針葉樹を植え代えることは一見問題ないようだが、その実態は森林の植生に多大なダメージをもたらす。<br>
　落ち葉の下に宿る生命を奪い、本来の山林の保水力を著しく低下させる。その挙句の果てに、春先にはテレビＣＭで見るようなあのおぞましい光景が展開される。巨大な杉山からおびただしい量の黄色い花粉が、春風に巻き上げられて日本中に振り撒かれることになる訳だ。
</p>
<p id="last">　近年ではこれに中国からの黄砂や産業粉じんがアレルギー症状の悪化に拍車を掛けていると言われている。<br>
　これはもう限りなく人災に近いのではないだろうか。<br>
　少なくとも税務署は花粉症対策にかかるマスクや医薬品のすべてを無制限に控除対象とすべきだ。<br>
　これは本気になれば意外に簡単に認可されるんじゃないかと言う気がする。だって省庁の役人や税務署員のなかにも重症患者は相当数いると思われるからだ。<br>
　今になって農水省もこの杉植林を進めてきた事業の見直しと改良策にあたっているようだけれど、僕に言わせてもらえばこういう愚行をまさしく「マッチポンプ」というのだ。<br>
　……グッシュン。
</p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
   </content>
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   <title>第二十回　老いの花</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/archives/2009/02/14/152209.php" />
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   <published>2009-02-14T06:22:09Z</published>
   <updated>2009-02-14T05:16:30Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第二十回　老いの花 文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.02...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第二十回　老いの花<span class="index2_title_20"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.02.14</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　少し以前にこんな経験をした。<br />
　ある日、お昼を食べようと最近できたばかりの飲食チェーン店に行ってみた。<br />
　お腹を空かせて店内に入ると入口の脇に大きな食券の販売機がある。<br />
「さぁ何を食べようか…」と券売機のメニューを人差指でなぞり始めると、僕はそのままの状態で暫しの間、凍りついてしまった。<br />
　メニューがそのままスイッチになっているのだが、まずその数が尋常じゃない。それもベースの料理が多いのは勿論だがそれに加えてゴハンの盛り方やら十種以上もあるトッピング、それにサイドメニューまで全部を選択していくようになっている。<br />
　あんまりスイッチの数が多くてまずベースの一品がどこに在るのか皆目わからないのである。<br />
　僕が目を白黒させて立ち尽くしていると、後ろに若い男の子が並んだので僕は先に順番を譲ってあげた。<br />
　するとその男の子はチャッチャと苦もなくメニューを選んでさっさと席に着いたのだった。<br />
「そういうことか…」僕はそこで初めて理解したのだった。<br />
　これは気付かないうちに僕が“そういう年齢”に近づいてきたということなのだ。
</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　そう言えば昔、これと逆の光景を僕はよく目にしていた。駅の切符の券売機に並んでいると僕の前に居た腰の曲ったお婆ちゃんの順番になった。でもお婆ちゃんは路線図をじっと見つめたまま動こうとしない。いや動こうにも動けないのだった。<br />
　やっとのことで券売機に向かうが今度は切符の買い方が解らない。<br />
　それを見ていて僕は顔をしかめて苛立ちをあらわにしたものだった。<br />
　今になって判る。あのお婆ちゃんはいずれ確実に訪れる自分の姿なのだ。<br />
　因果応報である。<br />
　それと最近ニガ手なものにマニュアルというやつがある。<br />
　以前は家電品を買えば律儀にマニュアルに目を通していた。<br />
　視力が低下したせいもあると思うが今ではあの分厚い説明書を読むのが億劫でならない。すっかりマニュアル恐怖症になった。<br />
　考えてみればこれも老化現象のひとつかなと思う。
</p>
<p>　人間は生きていれば年齢はとる。誰にも判る当たり前のことだ。<br />
　でも人間誰しも老いたくはないのが心情だろう。<br />
　五十歳近くにもなれば、目や歯に始まり身体のいたる所に衰えは現われてくる。そろそろ成人病なんかも気になってくる。<br />
　ただ僕には身体の衰えを別とすれば、今ひとつ「老いる」ということにピンとこない。
</p>
<p>　考えてみてほしい。もしも、もしもである。肉体が衰えないとしたら「年齢をとる」のはそう悪いことじゃない気がする。<br />
　それは言ってみれば、人生経験を積み重ね智慧を深める。人の心の機微を識り、ケーススタディの蓄積を通して様々な障害に対処できる術を身につけられる。ということでもある訳だ。
</p>
<span id="index2_photo_1_20">（写真その1）<span class="index2_pic_1_20"></span><!-- /span#index2_photo_1_20 --></span>
<p>　読者の皆さんに訊いてみたいのだが、よく人生をもう一度やり直せたら…なんてことを言うけれど、みんな本当にそう思うのだろうか。<br />
　四十年、五十年という人生を生きてきて、まだなおあの生きているだけで苦しかった青春期を再びやり直すのは僕には余りにシンドイ。そこまでして再チャレンジするだけの気力は今の僕にはない。<br />
　これは特段僕の青春期が苦しかったから言っている訳じゃない。<br />
　思春期から青年期に生きていて辛いのは、人生経験が浅く、物事や人間関係に対処するだけの生きる術を持たないからだ。<br />
　少なくとも今の年齢まで齢(よわい)を重ねてくればそれなりの処世術なり物事の分別はある筈で、それを老後の人生に活かさない手はないではないか。
</p>
<p>　世阿弥という能楽の大家が能の指南書である『花伝書』の中で言っている。<br />
　人にはそれぞれ年齢に見合った所作なり演目というものがあって役者はその身の丈に合った花を咲かせる。<br />
　そしてある年齢に達したら、華のある重厚な役は若い世代に譲って自分は一歩引いて蔭から舞台を支えるべきだ。<br />
　けれどもそうしていく中に虚飾の無いきれいな花が最後には残るだろう……と。
</p>
<p>　今後、日本は未曾有の高齢化社会を迎える。<br />
　僕はいたって趣味の乏しい人間で、老後を趣味に費やそうとは思わない。<br />
　こういうタイプの人間ほど老後は余暇を持て余し高齢化社会にはそぐわないらしい。<br />
「老いてなお盛ん」なお年寄りは今も大勢いらっしゃる。<br />
　いつまでも健康を維持して適度にスポーツなども嗜み、多くの友人や家族と接しながら長く愉しめる趣味を持って生きる。それは現代人の描く老後の人生の理想かも知れない。
</p>
<p id="last">　でも僕はそれほど多くを望まない。<br />
　病気はしたくないがあまり長生きしても友も居なくなるし、することもなくなる。<br />
　できることならば死ぬまで自分の口を糊する適度に仕事をもって、あとは社会を横目で睨みながら、いつもブツブツと若い奴らや世の中に文句の一つも呟きながら、のほほ～んと生きていきたい。<br />
「花」とはかなり縁遠いけれど、これが、ささやかな僕の老後の理想である。
</p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
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   </content>
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   <title>第十九回　酒場の品格</title>
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   <published>2009-01-07T04:00:59Z</published>
   <updated>2009-01-07T03:20:38Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十九回　酒場の品格 文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.0...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十九回　酒場の品格<span class="index2_title_19"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2009.01.07</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_19">（写真その1）<span class="index2_pic_1_19"></span><!-- /span#index2_photo_1_19 --></span>
<p>『ロハスサン』読者の皆様、新年おめでとうございます。<br />
　本年も、併せて「おとなの能書き」、宜しくお願い申し上げます。<br />
　年もあらたまったので、目出度く酒席の話で鏡開きなどを……。</p>
<p>　よく酒呑みの中に、酒を呑む目的は酔うためだと言って憚 (はばか)らない御仁がいる。<br />
　おそらくこういう人は本当にお酒が好きなのではないのだろうと思う。<br />
　僕はこれには賛同できないし、そういう御仁と酒席をご一緒するのも遠慮したい。<br />
　僕が酒を呑むのは、酒そのものの味とその酒に合う旨い肴を愉しむため、それともう一つは大切な友人だったり好きな人と美味しくて愉しい時間を共にしたいからだ。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　そこでいつも悩むのは、じゃあいったいどこで呑むか？という問題なのだ。<br />
　いつも行く店は決まっているという人は多いと思う。<br />
それでも誰しも時と場合によっては新たに店を探さねばならないこともあるだろう。</p>
<p>「どこにする？」と聞かれて「どこでもいいよ」とは言いつつも、手当たり次第に飛び込んで後で「あぁやっぱり止めときゃよかった」というような経験は皆がしている筈だ。</p>
<p>　酒場を選ぶ場合、重要な要素となるのが「誰と呑むのか」は当然として、相手も近所ならともかく「場所をどうするか」「予算はどのくらいか」「奢りかワリカンか」「料理や肴は何がいいか」というのはかなり考慮すべき問題だ。<br />
　もっと言えば参加人数や男女比、年齢構成もそうだし、皆の当日の体調だって店を選ぶには気になる。<br />
　まぁ何もそこまで気にしなくても…と言ってしまえば身も蓋もない。<br />
“呑んべぇ”の身としてはやはりここは簡単には妥協はできない問題なのだ。<br />
「いい店、悪い店」なんていうのは所詮個人の好みの問題だと思う。<br />
　巷(ちまた)で話題のミシュランの“幾つ星”なんていう店はどうだか知らないが、雑誌なんかに取り挙げられている店でもいざ行ってみたら大したことはないなと感じる店もザラにある。<br />
　ただ、実際に足を運んでみて、しみじみと「ああ、これはイイ店だな」と思うような店にはやはりそれなりの理由がある。<br />
　これまでにさんざんと酒場を巡ってみて思うのだが、イイ店には人間と同じように確箇として“店の品格”というものが存在する。その辺りを僕なりに考えてみたい。</p>
<span id="index2_photo_2_19">（写真その2）<span class="index2_pic_2_19"></span><!-- /span#index2_photo_2_19 --></span>
<p>　まず始めに言っておきたいのは料金についてだ。酒場と言っても先のミシュランに載るようなお一人数万円の高級店から酒屋の立ち呑みまでその開きはかなり大きい。<br />
　料金の張る店の食材やサービスが良いのは至極当然の話で、こんな店は僕の守備範囲じゃない。<br />
　当たり前のようだが僕が気になるのはコストパフォーマンスの高い店、つまり支払った料金以上の満足感が味わえる店なのだ。</p>
<p>　居酒屋や小料理屋というジャンルで言うと、僕ももういい年齢なのであまりガヤガヤと騒がしい店は苦手だ。できるならこじんまりとした店で小うるさくなくて親爺かおかみさんの二、三人でやっている店がいい。<br />
　それとあんまり常連ばかりで埋まっているのも気が引ける。客と板場の関係というのは“つかず離れず”といった絶妙な距離感を保っていてほしい。<br />
　酒と料理の品数は多い方がいい。大切なのは料理を出来合いではなくちゃんと手間をかけて手作りしていること。実はこの“手間をかけて”というところ一番大事で、料理というのは手間暇をかけていればそういう味がするものなのだ。<br />
　あと僕個人的には料理にひと工夫してある物、よくある品でもそこに「ええっ、これが」というような意外性が感じられると酒肴としてはかなりポイントが上がるというものだ。</p>
<p>　寿司屋の場合でも酒が主体である以上、サイドメニューが豊富なことが一つの条件だ。板場の清潔感や板前のキビキビとした仕事振りも目安になる。<br />
　握りもシャリは小ぶりでその上で“浸け”や“昆布〆”なんかの「仕事」のしてあるネタで勝負している店はまず外すことはないと思っていい。</p>
<p>　焼鳥屋も最近はブランド鶏や珍しい種類の部位を出す店が珍しくなくなった。しかしガード下で昔ながらの値段でモクモク煙を上げている店もまだまだ元気で捨てがたい。<br />
　焼き鳥は何と言っても手際が勝負だ。真っ黒く焦がしたり注文が追い付かないようじゃいい店とは言えない。武骨で怖そうな親爺が、たとえクルマが飛び込んできても炭焼き台に張り付いて離れないような店。それともうひとつ、シオ焼きが旨いこと。これは絶対条件だ。</p>
<p>　僕の経験上、「オリジナル創作料理」なんて大きく看板に謳っているような店に限って大した品が出てきた試しがない。<br />
　そんな謳い文句なんかじゃなくて壁に短冊メニューがいっぱいあって、簡潔で気の利いた分かり易い料理名が並んでいる店、やたらと自慢することなく謙虚でありながらも親爺の目には力が漲っている。そんな店なら期待大だ。<br />
　そもそもこういう店は客筋も良いし既に暖簾の前の軒先から清涼感にも似た“イイ感じ”が漂っている。<br />
　だから酒呑みがいい店を嗅ぎ取る“直感”というものも侮るべからざるものなのだ。<br />
　ミシュラン本の評価なんかをアテにするよりも酒呑みの五感を働かせて見つけた店こそ価値のあるイイ店なのだと思う。</p>
<p id="last">　しかしながらご同輩の呑んべぇの皆様、値踏みしているのは店側も同様だということを忘れてはいけない。<br />
　鼻を利かせてやっとこ良さ気な店を見つけても、呑み手に“酒品”がないと、「まことに申し訳ありませんが次回は…」てなことになり兼ねないのでくれぐれも留意のほどを。</p>
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   </content>
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   <title>第十八回　家族の肖像</title>
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   <published>2008-12-22T07:49:57Z</published>
   <updated>2008-12-22T03:16:50Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十八回　家族の肖像 文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.1...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十八回　家族の肖像<span class="index2_title_18"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.12.22</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　日本が昭和の高度成長期を迎えた頃、僕は東京下町の核家族の中で育った。<br />
　父も母も晩婚で僕が生まれた時、父はすでに五十の峠を越えていていた。それでも親子三人で仲むつまじく暮らしていた……と言いたいところだが、そこは家庭の事情というヤツでなかなかそうもいかずに、僕は父と母の間を行き来しながらも主に母親とふたりで暮らした。</p>
<p>　母も昼間は働きに出ていて、僕はいわゆる“一人っ子でカギっ子で恥かきっ子(高齢の両親に生まれた子供のこと)”という昭和の子どもの三重苦を背負っていた。<br />
　そんな訳で僕にはどこか当時から大家族に対する“気後れ”みたいな感情があった。<br />
　小学生の頃だった。カギっ子だった僕は夕食を一人でとることも多く、それを知っていた友達の家の夕餉に「お呼ばれ」に与(あずか)ることがあった。</p>
<p>　その家は兄弟三人に祖父母が揃う大家族だった。とても賑やかな食卓で僕にもとても優しく接してくれた。<br />
　しかしこういう時、僕は本当に困惑してしまった。<br />
　なんとも尻の座りが悪く、身の置き所が無いのだ。<br />
　大家族に慣れない僕はこうした席でどう振舞っていいのか分からず緊張してうまく話せない。大人達の前では子供らしくしなくちゃ、みたいなことを考え過ぎて何を話してもぎこちなくなってどうにも腰が落ち着かなかった。<br />
　今思えば厄介な子供だったものだ。</p>
<span id="index2_photo_1_18">（写真その1）<span class="index2_pic_1_18"></span><!-- /span#index2_photo_1_18 --></span>
<p>　この感情は僕の中で今もどこか引きずっているところがある。そのせいかどうか判らないが大人になった今も家族は最小単位のままだ。<br />
　僕は結局、家族に縁が薄いまま今に至ってしまったが、「家族」への想いは複雑で、実のところ気遅れと憧憬が相半ばしている気がする。</p>
<p>　ドラマの世界でもあの頃はホームドラマが全盛だった。<br />
　僕らの世代の人間はホームドラマにどっぷりと浸かって育ったと言っても過言ではない。<br />
　NHKの朝ドラに始まり、木下恵介シリーズ、橋田寿賀子、向田邦子、久世光彦、倉本聰、山田太一などなど、ホームドラマの名作を生み出した旗手と言われた人々が綺羅星の如く居並んでいた。<br />
　中でも「父の詫び状」に代表される久世光彦演出の向田邦子作品や倉本聰の「北の国から」には僕個人的にも大きな思い入れもあって、書きたいことは幾らでもあるのだが、書き出すとキリが無くなりそうなので止めておくことにする。<br />
　いずれにしてもかつての日本のドラマの多くは「家族」を中心にして作られてきたと言っていい。</p>　
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　しかし今では最早ホームドラマというジャンルが成り立たなくなりつつある。<br />
「家族」の形態も昨今すっかり変ったものである。<br />
　家族の結びつきがどんどん希薄になり、夫婦は親との同居を望まず子供は親のいる家庭に寄り付かなくなった。<br />
　その結果が及ぼした影響かどうかは解らないが、子供や老父母への虐待や子供による近親殺害事件のようなおぞましいような事件が毎日のように頻発している。</p>
<p>　もうひとつ気になるのはモンスターペアレントと呼ばれる身勝手な親の出現である。<br />
　自分と自分の家族だけがよければ他人はどうでもいいという考え方の親たちがそこらじゅうに現れたのには正直言って驚いた。<br />
　自分たちの勝手な都合を学校に押し付ける、また給食費を払えないのではなく、払わない親たち。<br />
　もしも僕の両親が生きていたらこれを一体どう思うだろう。自分たちの食いぶちを減らしてでも子供にお金を持たせるのが親というものだった筈だ。あの親たちは他人を犠牲にして身内だけに利があることを家族愛だと思っている。“愚の骨頂”とはこのことである。</p>
<p>「家族」は本来社会生活の基本になる構成単位だ。<br />
　だから子供は親や祖父母と暮らすことで身近な大人たちとの関わりやそれぞれの立場を識る。<br />
　それを理解して家族同士が助け合うことも自然と身につけるようになり、家族を通して老いや死というものにも間近に触れる機会をもつことにもなる。<br />
「家族」の在り方を見直すことはこの国の将来を考えることときっとどこかで繋がっている。</p>
<p>　とは言いながらも、まぁホンネを言えば、関係が上手くいっていればいいが一度こじれるとなかなか修復の効かない軋轢(あつれき)をもたらすのもまた「家族」というものだ。<br />
　普段は仲むつまじい家族だって「寅さん」や「寺内貫太郎一家」じゃないが時にはドタバタと激しくぶつかることだってある。それはいつの時代だって変わらない「家族」の現実だ。
それでもブーブー文句言いながらもなんとか取り繕ってやっていくのが実は正しい「家族」の在り方なのかも知れない。</p>
<p>　今は何か皆、家族も含めて人とぶつかることを極端に恐れ過ぎているような気がする。<br />
「喧嘩するほど仲がいい」のが「家族」なのに。ぶつかり合って傷ついてまた修復することで「絆」が生まれる。<br />
　昨今の猟奇的犯罪や重大事件を見ていると忍耐力とか人を許す寛容さが無くなっているように見える。<br />
　互いに許し合うことを家族の中で学んでいたら少し違った結果になっていたんじゃないかとも思う。</p>
<p id="last">　そう、それと忘れちゃいけないのは誰もが最期に帰ることのできる場所が「家族」だということだ。<br />
　だからミジメな老後を送りたくなければ今から最期に帰る場所だけはシッカリ“確保”しておかないと……。<br />
　うーん、やっぱり「家族」って難しいもんだ。</p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
   </content>
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   <title>第十七回　こころを病むということ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/archives/2008/11/14/165119.php" />
   <id>tag:www.lohas.co.jp,2008:/essay/otake//13.160</id>
   
   <published>2008-11-14T07:51:19Z</published>
   <updated>2008-11-14T02:43:29Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十七回　こころを病むということ 文：イッコー・オオタケ ｜ ...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十七回　こころを病むということ<span class="index2_title_17"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.11.14</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_17">（写真その1）<span class="index2_pic_1_17"></span><!-- /span#index2_photo_1_17 --></span>
<p>　ここ十年ばかりの間に僕の周りでこころを病む同世代の人間が続出している。<br />
　同級の古い友人、仕事仲間、かつての会社の同僚。僕の周囲の気の置けない仲間たちが次々と、まるで伝染病に罹患していくかのように倒れていった。<br />
　みんな家庭をもち社会の一線でバリバリ働き、普段は病気とは全く無縁に思われる男達ばかりだった。<br />
　彼らはほとんど何の前触れもなく、或る日突然、精神的に不調をきたし或る者は職場を去り、また或る者は親しい仲間に何も告げないまま姿を消した。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　何を隠そう僕もその一人だった。<br />
　今からもう十年近く前になるが四十歳を目前に僕は神経症になった。<br />
　ある日突然眩暈(めまい) に襲われて、「一体これは何だ……」と思っている間に今度は激しい恐怖感で外出することが困難になった。<br />
　思えばこのひと月ばかり前に予兆らしきものがあった。<br />
　僕は元来アルコールには強いほうで、相当量呑んでも酒で前後不覚になったことはそれまで一度もなかった。<br />
　ところがそれは知人と行きつけの店でウイスキーを三杯ほど呑んだ時だった。突然視界が揺れ始めたと思ったら目の前が真っ暗になってその場で気を失って倒れてしまった。でもほどなく僕は覚醒しその時は大事に至らずに済んだ。<br />
　こんな事は後にも先にも初めての体験だったので僕は驚愕したと同時にその時の恐怖感がトラウマとして残った。</p>
<p>　この時のトラウマが後に大きな影響を及ぼすことになった。<br />
　自分がいつ倒れるかもしれない、と思うと怖くてバスや電車に乗ることもできない。<br />
　当時は長く勤務していた会社を離れて自分で仕事を始めたばかりだったので、初めのうちは様子を見ながらなんとか仕事の遣り繰りをした。しかし時が経つにつれ状態はどんどん悪化の一途を辿っていった。<br />
　外に出るのがどうにも苦しくて苦しくて仕方がない。<br />
　仕事に出なきゃならないのにその気力が湧いてこないのだ。<br />
　それでもなんとか振り絞って死ぬ思いで出勤した。外に出て日を浴びると膝がガクガク震えて冷や汗でびっしょりになった。<br />
　二、三日何もせずゆっくり過ごしてみようとするが、むしろ焦燥感に苛(さいな)まれていたたまれなくなる。<br />
　そのうちに人に会うことが辛くていよいよ仕事にもならない状況になった。強い不安と孤独感が押し寄せ、本を読んでもテレビを観ても無味乾燥で面白くもなんともない。<br />
　ただ「このままじゃいけない……」という焦りだけが繰り返し湧き上がってくる。</p>
<p>　そんな状態になってようやく病院の門を叩いた。それでも当初は原因が判らず、いくつかの科を廻されて検査を繰り返した挙げ句、やっと「不安神経症」と「パニック障害」という病名がついて投薬治療が始まった。<br />
　今にして思えば僕はこの頃、抱えきれないくらいのストレスを背負っていたと思う。<br />
　まったく前向きになれない、毎日何もかもが不安だらけで先に何の光明も見えない精神状態は本当に苦しいものだった。<br />
　そんなにも苦しいのに、それを誰にも相談することもできなかった。誰に説明したところで本当に理解してもらえる気がしなかった。<br />
　この頃になって僕の古い友人たちが最近まったく連絡が取れなくなっていた僕を不審に思って仕事場に押しかけてきた。<br />
　僕を無理矢理に食事に連れ出すと「最近のお前は明らかに変だ、わけを話せ」と詰め寄られた。<br />
　いきなりの展開にその時は焦りとプレッシャーでドギマギして旨く受け答えができなかったが、僕は彼らの思いが心から嬉しかった。</p>
<p>　それからしばらくのち、投薬の効き目もあってほんの僅かづつだが、薄紙を剥がすように僕の神経症は快方に向かっていった。でもやっと快復したと言えるまでにはそれから約五年の歳月が必要だった。<br />
　正直に言えばこの間、苦しさの余り一瞬とはいえ“死の影”がよぎった事もあった。僕は自分がそんな事を考えるなんて思いも拠らなかったので少し驚いた。そして人間なんて弱いもんだ……と思った。一時期の僕はそれほどまでに追い込まれていたのだった。</p>
<p>　今や神経症は国民病と言ってもいいほど世に蔓延している。<br />
　特に平成を迎えて以降、この傾向に拍車がかかっている。何故今これほどまでにこころを病む人々が増加しているのだろう。<br />
　自らこの現実を体験した僕には一つの仮説がある。仮説ではあるが確信に近い。</p>
<p id="last">　神経症と同様に現代病として増加の一途を辿る症状にアレルギー症がある。<br />
　アレルギーとは本来人間のもつ免疫が或る特定の物質に対して過剰な反応を起こして自身に様々な障害を起こす症状だ。<br />
　これはひょっとすると神経症もこれに近い症状で、脳内にも何らかの免疫システムがあってそれが過剰反応を起こしているんじゃないか。つまり現代の閉塞感でいっぱいの、ゆとりのない極度に先鋭化した社会に対する人間のアレルギー反応なのじゃないか、ということだ。<br />
　もちろん僕は医者でも学者でもないからいい加減なことは言えない。でも結構核心を衝いているような気がする。<br />
　体験した人には感覚的に理解できるのではないかと思う。少なくとも僕にはそう思えてならないのだ。</p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
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   <title>第十六回　月見る月</title>
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   <published>2008-10-14T02:40:55Z</published>
   <updated>2008-10-16T09:58:56Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十六回　月見る月 文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.10...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十六回　月見る月<span class="index2_title_16"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.10.14</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　月が美しい季節になった。<br />
　仲秋の頃はもうとうに過ぎてしまったが、この時季は空が高く空気は澄みわたり、僕が一年で最も好きな季節だ。</p>
<p>「月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」<br />
　宮廷の女官たちは言葉あそびにこんな歌を詠んでこの時季の月を愛でていたようだ。</p>
<p>　三方に盛った団子と稲穂に見立てた薄(すすき)を縁側に供えて満月に作物の収穫への感謝と豊穣を祈る。かつての日本の初秋を象徴するかのような十五夜の風景である。<br />
　今ではもはや縁側のある家というのも珍しくなってしまった。<br />
　残念ながらこれがマンションのベランダではどうにも画にならない。やはりここは庭越しに満月を望む日本家屋の縁側であってほしいものだ。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<span id="index2_photo_1_16">（写真その1）<span class="index2_pic_1_16"></span><!-- /span#index2_photo_1_16 --></span>
<p>　旧(いにしえ)の昔から日本人はお月さまが大好きだ。<br />
　ちょっと歴史のある建築物には月見台に月見の窓、それに月見橋なんていうものまであったりする。日本人は月を建築様式にまで取り込んでしまった。<br />
　日本人にとって月は、時に一幅の画であり、季節の象徴であり、照明装置であり、また信仰の対象であったりする。<br />
　僕が子供の頃には田舎に行くと月に手を合わせて祈るお年寄りがよく居たものだ。</p>
<p>　明るい月夜には狸が浮かれてポンポコ腹鼓を打って踊り出す。こんな寓話の描写を見ても月にはあまりネガティブな要素はない。<br />
　ところがこれが西洋では月夜は不吉な出来事の前兆として描かれることが多い。<br />
　月をバックにコウモリが飛び交い、ドラキュラが徘徊する。<br />
　かと思えば魔女の呪いに利用され、月の魔力で変身した狼男が月に向かって遠吠えをあげる。こうした光景はまさに不吉の元凶みたいな扱いだ。<br />
　こうも洋の東西で扱いが正反対なのも面白いものだ。</p>
<p>　夏の太陽を取るか、秋の月を取るか、と問われれば、僕は迷うことなく月と答える。<br />
　都会に住んでいるとほぼ二十四時間街の明かりが途絶えることはなく、およそ月をありがたく思うこともない。それどころか夜空に月の在りかさえ判然としないのが都会の空である。<br />
　でもたまに野山に遊びに出かけて慣れない夜道を歩いてみると、月明かりというものの美しさとありがたさをしみじみと感じさせられる。</p>
<p>　よく満月の日には大きな事件が起こる、と言われるけれど、どうやらこれもまんざら迷信とも言えないらしい。<br />
　警察庁が長期の統計を取って調べたところ、新月・満月には重大事故が多く上弦下弦の半月にはうっかり事故が起りやすいことが判明したというのだ。<br />
　月は不思議な魅力に溢れている。</p>
<p>　そう、月にまつわる思い出で忘れられないのが「アポロ11号」である。<br />
　あれは僕が小学校の3年のとき。風邪をこじらせ、あらぬ病の疑いをかけられて、ひと月ほど病院で過ごすハメになった。<br />
　初めて家を長く離れて過ごさねばならず、毎日不安で小さな胸を痛めていたのであった。<br />
　あのアポロ11号の月面着陸はまさにこの時だった。6人部屋に小さな白黒テレビが一台だけあり、夜中にも関わらず入院患者全員が群がってこの小さな明るい窓にかじりついていた。<br />
　画像も粗く雑音だらけでほとんど理解できなかったけれど、みんなこの世紀の大イベントを食い入るように観ていたものだ。<br />
　あの時代の人間にとって、「人間が月面に立った」というのはとんでもない出来事だったのだ。<br />
　僕以外はみんな大人ばかりであったが、このイベントのお陰で全員が打ち解けてなかなか楽しい入院生活になった。</p>
<p>　ところで皆さん、今、月の土地を誰でも購入できるのはご存じだろうか。<br />
　これはアメリカ人のデニス・ホープという人がアポロの月面着陸を観て、「月の所有権」は誰にあるのか？　という問題にハタと思い当たっていろいろと調査してみた。すると当時はまだそうした概念がなく、行政機関に所有権を申請してみたところなんと受理されてしまったという。<br />
　これを機に1980年に「ルナエンバシー社」なる「地球外不動産会社」を始めたんだそうだ。<br />
　たった3,000円ばかりで月の権利書なるものが送られてくる。ちょっとした面白い贈り物として結構人気があるようだ。<br />
　日本でもインターネットで買えるようなので興味のある向きは検索してみてはいかがだろう。</p>
<p id="last">　いかにも胡散臭い商売だけれどアメリカらしいといえばアメリカらしい。<br />
　でもお月さまに何の断りもなくこんな商売で荒稼ぎをしていると、そのうちに「月に代ってお仕置き」されちゃうかも……。</p>
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   </content>
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   <title>第十五回　ニッポン無責任時代</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/archives/2008/09/12/104157.php" />
   <id>tag:www.lohas.co.jp,2008:/essay/otake//13.157</id>
   
   <published>2008-09-12T01:41:57Z</published>
   <updated>2008-10-14T02:29:35Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十五回　ニッポン無責任時代 文：イッコー・オオタケ ｜ 20...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十五回　ニッポン無責任時代<span class="index2_title_15"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.09.12</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_15">（写真その1）<span class="index2_pic_1_15"></span><!-- /span#index2_photo_1_15 --></span>
<p>　いや～本当に驚いた。<br />
　日本の総理大臣が何の前触れも無く、突然辞任してしまった。</p>
<p>　でもこれが初めての事じゃない。前任者に続いて二人目の職場放棄だ。とても先進国と言われる国の出来事とは思えない。この国の政治の稚拙さを露呈してしまった“事件”と言っていいと思う。<br />
　次の首相が決まるまでに大きな災害やテロでも起きたら一体誰が国家としての責任を担うのだろう。<br />
　無責任もここに極まれり、である。</p>
<p>　それにしても僕が気になるのは、いつからかこの国に蔓延する「無責任体質」である。<br />
　僕の知る限りこの国は本来、責任の所在というものにかなり神経質だった筈だ。</p>
<p>　昭和のあの頃、学校でも会社でも集団社会の中での規律や行動には常に「責任」が付随していた。集団の長は責任者とされ、すわ何か問題が起きた時には「何もそこまで…」と思うような事にも長が責任を取った。<br />
　僕が思うにそれはおそらくあの戦争の苦い体験が根底にあったのではないか、という気がする。<br />
　国民にあれほどの辛酸を舐めさせておきながら軍部、指導者たちは最後まで戦争責任を認めようとはしなかった。<br />
　このことへの強い悔恨とトラウマが戦後の社会体制、経済復興に活かされてきたのではないだろうか。<br />
　日本が戦後、世界でも稀に見る復興と成長を遂げられたのはただ運に恵まれた訳ではない。国民一人ひとりが強い責任感を持って「仕事」を全うしたからだ。</p>
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<div id="index2_contents_2">
<p>　思えばあの頃は高校野球でも野球部と関係のない生徒の非行で甲子園への出場を断念した、などということもよくあり、その是非が話題になった。</p>
<p>　政治の場でもあの自民党でさえ、かつては選挙で負けた時には総裁自らが敗北を認めて責任を負って辞めたものである。<br />
　個々の問題の是非は別として、起こした問題の責任を長が取るということは問題が深刻化するのを早い時期に食い止めて組織全体に非難が及ぶのを防ぐ意味も併せ持つ。言うなれば大人の智慧と言っていい。</p>
<p>　ところが昨今の日本社会の無責任ぶりはどうだろう。<br />
　前回の参院選で自民党が惨敗して与野党が逆転してもとうとう総裁は責任を取らないまま居座りつづけ、その挙げ句に勝手な都合で職責を放り出した。<br />
　そしてこの度の辞任劇では会見の場で惨めたらしく泣き事を並べ立てた挙句、記者に捨て台詞を吐いて消えるという有様だ。一番の被害者である国民には一言の詫びもない。<br />
　こんな人物が我が国のトップだったのかと思うと情けなくて言葉もない。</p>
<p>　事は政治の場にとどまらない。<br />
　相撲協会の理事長は親方自らが暴行致死事件を犯しても長としての責任はないと言って憚(はばか)らず、自分の弟子の麻薬事件にも頬かむりする始末だ。<br />
　警察も役所も数々の不祥事を隠蔽して情報を上げず責任を回避しようとするのが日常化している。<br />
　食品メーカーの製造日の偽装でも、うなぎや牛肉の産地偽装もしかり、老舗料亭の食材の使いまわし等、等。数え上げたらキリがない。</p>
<p>　どれもこれも問題を起こしたトップがきっちりと謝罪して責任を取った場面は皆無だった。<br />
　なんとかしてウヤムヤに終わらせてこの場をやり過ごそうという下心が透けて見えた。<br />
　あの人生幸路師匠じゃないが「責任者出て来～～い !」である。</p>
<p>　僕は数年前のイラクで起きたPKOのボランティアの拉致事件を忘れることができない。<br />
　当時の小泉総理のいわゆる「自己責任」論というまやかしによって、被害者の彼らが日本中からバッシングされるという風潮が巻き起こった。<br />
　僕はこれに強烈な違和感と気持ちの悪さを覚えた。<br />
　何故、この国の人々はこんな理不尽に加担するのか、僕には理解できなかった。<br />
　どんな状況下にあろうとも国民の生命と財産を護るという国家の大原則がないがしろにされた。<br />
　今思えばあれこそ、この国が「無責任社会」になった決定的な事件なのではないだろうか。</p>
<p>　責任回避や放棄が社会で日常化するようになれば、日本はいずれ立ち行かなくなる。<br />
　国家財政はこれまでの赤字国債の乱発で破綻しかけている。少子化で子供を産めと言いながら医師が不足して産院もない。やっと生まれた子供がかかる小児科の医師もなり手がいない。また老齢化の波が押し寄せる中、社会保障制度は大きく信頼を失っていて高齢者たちは不安でいっぱいだ。<br />
　これらはすべて国の「無責任」によって国民がそのツケを払わされている訳だ。</p>
<p id="last">　これがお隣の韓国や南米の国なら暴動が起こっていても不思議じゃない気がする。<br />
　僕などがエラそうなことを言う立場ではないのは重々承知しているが、もうそろそろこの国の住人もちゃんと怒りを示すべきだ。<br />
　それがこの国の大人の「責任」なのではないだろうか。</p>
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   <title>第十四回　拝啓、渥美 清様</title>
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   <published>2008-08-20T07:49:12Z</published>
   <updated>2008-08-20T02:43:32Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十四回　拝啓、渥美 清様 文：イッコー・オオタケ ｜ 200...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十四回　拝啓、渥美 清様<span class="index2_title_14"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.08.20</p>
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<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_14">（写真その1）<span class="index2_pic_1_14"></span><!-- /span#index2_photo_1_14 --></span>
<p>　今年は貴兄の十三回忌の年なのですね。早いもので貴兄が鬼籍に入られてからもう十二回目の夏を迎えようとしています。<br />
　衛星放送やケーブルテレビといった多チャンネル時代を迎えた今では、貴兄の作品は毎日、日本中どこかのチャンネルで放映されています。<br />
　これほどの年月を経ても貴兄の人気が衰えることを知らないのは、やはり貴兄が老若男女すべての人々に愛され続け、日本人の誰もが知る貴兄の作品の数々が今もなお、いや、今だからこそ多くの現代人の心を捉えているからに外なりません。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　今でこそ貴兄に対してこうして親愛と敬意の念を抱く私ですが、若い頃の自分は決して貴兄の映画が好きではありませんでした。<br />
　親友が映画館の支配人をしていたこともあって自分の周囲には映画について一家言ある連中が多く、いつも「影武者のクロサワはもうクロサワじゃない」だの「最近のATG作品はつまらない」だのと訳知り顔で語り合う若造の一人でした。</p>
<p>　こんなイッパシの映画通気取りの若造には、およそ貴兄の映画には縁がなく、それまで一度として最後まで見通したことはありませんでした。<br />
「あんなマンネリで中身の無い、年寄りと子どもの観る映画」くらいにしか思っていなかったのです。<br />
　中身の無いのは自分の方だったのに。</p>
<p>　そんな私の映画観が大きく転換したのは二十五歳の冬、それはあたかも貴兄の映画のようにひとりで旅に出た旅先でした。<br />
　その年は広告の仕事を始めてなかなかまとまった休みをもらえず精神も肉体もクタクタになっていた時期でした。<br />
　やっと取れた正月休みに私はひとり長距離列車に飛び乗って一度行ってみたかった北陸の金沢を訪れました。<br />
　三日間ばかりの滞在でしたがひとしきり古都を巡り、旬の味覚を味わっての帰りしな、帰京の列車の時間までにぽっかり二時間ほど空いてしまい、どうしたものかと思案するうちに貴兄の映画の派手な看板が眼に飛び込んできたのです。<br />
　そう『男はつらいよ』シリーズの新作ロードショーでした。</p>
<span id="index2_photo_2_14">（写真その2）<span class="index2_pic_2_14"></span><!-- /span#index2_photo_2_14 --></span>
<p>　当時の自分には考えられないことの筈なのに旅の情緒に誘われたのか何となく貴兄の映画を観てみようと思い立ったのでした。<br />
　既に上映途中でしたが映画館に入って驚きました。館内は若者からお年寄りまで満杯であふれ、立ち見が出るほどでした。<br />
　でもその時の私が何よりもっと驚いたのは、その観客たちが映画を観て、至るシーンで手を叩いて大声をあげて笑い、最後はハンカチを握って啜り泣いていたことでした。</p>
<p>　正直に申し上げればこの時のストーリーはまったく覚えていません。それほどに僕はこの観客たちの熱気と、貴兄の映画のもつチカラに圧倒されてしまったのです。そして自分の見識の無さと未熟さに気付かされたのでした。<br />
　それからは48作全てを観続けることとなりました。そう、今度は自分があの時の観客のように泣き笑いしながら。<br />
　今観ればどれも理屈抜きに楽しく、山田洋次という稀代の監督とのコンビで練られた作品は日本人の心にほっとさせる潤いをもたらしてくれます。やはり貴兄の作品は年齢を経て観るほどに味わい深い気がします。</p>
<p>　そして忘れもしない平成八年の夏、突然に、本当に晴天の霹靂としか言いようもなく貴兄の訃報を知らされることとなりました。<br />
　貴兄はその時の日本国民の驚きが理解できるでしょうか。<br />
　私の拙い記憶では日本中が数日の間、ただただ茫然自失に陥ってしまったかのようでありました。<br />
　その前年に公開され最終作となった48作目をその時まだ私は観ていませんでした。亡くなってしばらく後にテレビ放映で観た貴兄は観るに忍びなく、衰えを隠しようもないその姿は今も痛々しさに胸が苦しくなるのを覚えます。</p>
<p>　思えば貴兄は実にミステリアスな俳優でありました。<br />
　死ぬまで国民のアイドル「寅さん」を演じ通し、本名の田所康雄としての私生活は微塵も見せてはくれませんでしたね。<br />
　若い頃に結核を病み片肺を摘出していたことも亡くなって初めて知りました。片肺のまま永く映画を撮り続けるのはきっと衆人には解らない苦しみもあったことでしょう。<br />
　それでも貴兄は最期まで「寅さん」を全うしました。</p>
<p>　だから周囲もそれを察しているかのように、あくまで役者として見送ることを決めていたようでした。<br />
　だからこそ貴兄の葬儀で贈られた「さくら」と「リリー」の弔辞には貴兄を愛する者たち全てが万感の想いを抱いたのです。</p>
<p>　しかし一方でこのことは俳優「渥美清」としては常に重い足枷(あしかせ)になっていたのも確かでしょう。寅さんシリーズ以外の貴兄の作品についてあまり語られないのはとても寂しい思いがします。<br />
　その中でも「あゝ声なき友」、「拝啓、天皇陛下様」は私の大好きな作品で、愚直で一本気な兵隊役は忘れることのできない、俳優「渥美清」の素晴らしさを改めて認識させてくれる作品でした。</p>
<p>　貴兄が亡くなって間もない頃、テレビの特集で見た貴兄のインタビューシーンを忘れることができません。<br />
　役者という仕事について語る中で、<br />
「スーパーマンの撮影を見に来た子供が言うんだよね。スーパーマン、飛んでって。飛んで見せてよって……。でも飛べないよスーパーマン。だってあれ糸で釣ってるんだもん。……辛いよねぇ」<br />
　そう話す貴兄の眼はなんとも悲しげで、この言葉に貴兄の俳優としての覚悟を垣間見たような気がしたものでした。</p>
<p id="last">　拝啓、渥美 清様。<br />
　貴兄は今ではなかなか見かけなくなってしまった大人の男であり本物の役者でした。<br />
　今年は十三回忌と寅さんシリーズ公開40周年の節目にあたり、貴兄にまつわる様々なイベントが行われるようです。<br />
　今でも貴兄の多くのファンがそう信じているように、日本のどこかの空の下を旅している「寅さん」の姿を思い浮かべながら、私も久しぶりにふらりと一人旅にでも出てみようかと思います。<br /><br />
　　　合掌</p>
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   <title>第十三回　本は生き残れるか</title>
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   <id>tag:www.lohas.co.jp,2008:/essay/otake//13.149</id>
   
   <published>2008-07-22T02:48:08Z</published>
   <updated>2008-07-22T09:29:01Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十三回　本は生き残れるか  文：イッコー・オオタケ ｜ 20...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十三回　本は生き残れるか <span class="index2_title_13"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.07.22</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　今ケータイ小説が若い人の間で人気を博している。<br />
　彼らはあの小さくてピカピカ光る窓の中に、その親指で夢や恋や悲哀を詰め込み、仲間たちと交感し合っているらしい。</p>
<p>　僕はもうオジサンなのでケータイで小説は読まないが、それもきっとアリなのだろう。手段はどうであれ若者が日本語の文章に触れる機会が増えるのはとてもいいことだと思う。
すでにケータイ小説から単行本になる逆転現象も珍しくなくなってしまった。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<p>　何を隠そう僕には、とある小説のモデルになったという輝かしい過去がある。<br />
　それもただ小説になったばかりじゃない。なんと「すばる文学賞」という歴史と名誉ある文学賞の受賞作のモデルである。ただし断わっておくが僕はモデルになっただけで、執筆したのは僕ではない。</p>
<p>　前にも書いたが僕はかつて広告会社に勤めていて、企業絡みの様々なイベントに関わってきた。ここで実に多様な仕事をした。<br />
　メジャーなところでは企業の周年パーティー、自動車メーカーの新車発表会やモーターショー。多種な企業の展示会やキャンペーン。そのほかにも宮内庁の式典もやったし省庁・自治体のくだらないイベントで税金の無駄遣いの片棒も担いできた。</p>
<p>　そんな中で今も記憶に残るのが、もう20年以上前に銀座の街を舞台に行った「銀座チンドン大パレード」だ。<br />
　有楽町の大きなデパートのオープンに日本全国からチンドンマンたち (かつてのチンドン屋さんが今はこう呼ばれる) を呼び集めて、大学生の仮装アルバイト集団と共に華の銀座の街中を広告のノボリを立てチラシを撒きながら練り歩いたのだった。</p>
<span id="index2_photo_1_13">（写真その1）<span class="index2_pic_1_13"></span><!-- /span#index2_photo_1_13 --></span>
<p>　およそ100人から成るエキセントリックな仮装集団が華の銀座の檜舞台に一同に会した姿は圧巻で、この光景はちょっとした“事件”だった。この集団を10組ばかりのグループに分け、それぞれのチームが碁盤の目のような銀座の街頭に繰り出した。<br />
　パレートが始まると沿道の人々も始めのうちこそ呆気にとられていたが、やがて皆にこやかに声援を贈ってくれた。<br />
　さらに驚いたことにビルの上階を仰げば、その窓越しに手を振るたくさんの人たちまでいた。<br />
　僕はこのイベントの責任者だったのでチームやコース決めから、行政、警察への申請、スタッフの食事場所やトイレの手配まで全部やった。</p>
<p>　ケッサクだったのはその食事風景だった。<br />
　事前にコース近隣の数件の居酒屋に出向きコトの仔細を説明して、「コレコレこういう風体の人たちが数十人ばかり食事をしたいので、まぁひとつよろしく……」と、頭を下げてお願いしておいた訳だが、いざ当日、現場を目の当たりにして思わず吹き出てしまった。<br />
　プロ意識の高いチンドンマンたちはこの“晴れ舞台”のために特別な装束を用意していた。<br />
　見るからに怪しい身なりの「ミッキーマウス」は金ビカの着物の「殿様」とテーブルを囲み、全身真っ黒にドーランを塗った「南洋のクロちゃん」が手作りの仮装の学生バイトの「ウルトラマン」と談笑していた。<br />
　あまりにシュールな光景を目の当たりにして、僕は可笑しくてひっくり返りそうになった。ただ皆を前に大笑する訳にもいかず、こみ上げてくる笑いをこらえるのにただもう必死だった。</p>
<p>　企画モノのイベントも色々と手掛けたが、銀座という大人のお洒落な街の景観と、ド派手なチンドンマンたちの仮装行列の対比はこれまでにない莫大な宣伝効果をもたらし、新聞やTVも大きくこれを取り上げた。<br />
　結果としてこのイベントは大成功に終わったのだった。</p>
<p>　それから一年半ほど経った頃、このイベントで運営管理のバイトを頼んでいた古い友人から唐突に連絡があった。<br />
「実はあの時のイベントを小説にして賞を獲った。次号の誌面で発表になる」<br />
　この男はこの時、現場で運営スタッフとして体験したチンドンマンと学生たちとの交流やパレードでの諸々のエピソードをひそかに書き貯めて、後に一編の物語を仕立てていたのだ。
僕が驚いたのは言うまでもなく、雑誌の発売日に本屋に走った。頁をめくるのももどかしく誌面をなぞると、思わず目がテンになってしまった。(表現が古くて恐縮だがこの時ばかりは文字通りだった)<br />
　自分がそっくりモデルになっているではないか !!!</p>
<p>　こうして僕の人生の1ページに“小説のモデルになる”という輝かしい経歴が加わることとなった訳だ。<br />
　旧友の長年の夢が叶い、僕の仕事が小説になったことは本当に嬉しかった。僕たちの青春期の体験が一冊の本になるというのはそれほどドラマティックな出来事だったのだ。<br />
　本は時代を超えてこれからもずっと残り、頁を繰ればいつでもあの時に帰ることができる。</p>
<p>　それにしても今はケータイで小説やエッセイも読めれば最新のマンガまでがダウンロードして読むことができる。<br />
　それ以外でも従来は書籍から得ていた情報がパソコンや電子ブックでいくらでも閲覧できるようになって出版業界は今、未曽有の不況に喘いでいると聞く。<br />
　こういう時代に果たしてこれからも本は生き残っていけるのだろうか ?<br />
　でも書物を手にした時の質感や装丁の美しさ、頁の手触り感というものはディスプレイ画面では味わえないものだ。<br />
　今後どれほどテクノロジーが進化したところで「本」という媒体が消滅することはないだろう。否、絶対そんなことにはなって欲しくない。</p>
<p id="last">　ただそうは思っていても世の中は需要と供給の経済原則で動いている。絶滅は免れても数が減少すれば執筆者の質や発掘にも影響しかねない。<br />
　やっぱり僕はちょっぴり心配だ。</p>
<!-- /div#index2_contents_2 --></div>
<!-- /div#index_left --></div>]]>
      
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   <title>第十二回　においの記憶</title>
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   <id>tag:www.lohas.co.jp,2008:/essay/otake//13.145</id>
   
   <published>2008-06-19T03:41:35Z</published>
   <updated>2008-06-19T11:17:01Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十二回　においの記憶 文：イッコー・オオタケ ｜ 2008....</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/">
      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十二回　においの記憶<span class="index2_title_12"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.06.19</p>
<!-- /div#index2_top --></div>
<div id="index2_contents_1">
<p>　僕たちオジサン世代は昨今、自分の“におい”に敏感にならざるを得ない事態に追い込まれている。<br />
　何しろオジサンたちはこの“におい”のお陰で今まで散々な目に遭っているのだ。<br />
　一生懸命働いて汗をかいて家に帰れば、妻や娘から<br />
「ヤダ~~お父さん、クサ~~イ」と罵られ、加齢臭の染み着いた下着や靴下は割り箸でつままれて他の家族の洗濯が終わったあとの洗濯機に放り込まれる。<br />
　ハッキリ言うが、これはもう立派なオヤジ差別である。<br />
　そんな仕打ちを受けながらもお父さんたちは文句も言わずに、密かにドラッグストアでデオドラントスプレーなんかを物色したりしているのだ。</p>
<p>　においはそもそも漢字にすると「匂い」と「臭い」、二つの表記がある。「Word」の辞書によれば、前者は「良いにおい」、後者は「悪いにおい」でこれは「臭い(くさい)」と字まで同じだ。<br />
　さしずめ現代のお父さんたちのにおいを表わす文字は、「臭い」ということになるのだろう。<br />
　なんともやるせない時代である。</p>
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<div id="index2_contents_2">
<p>　我々は一体いつからこうも過敏ににおいに反応するようになったのだろう。<br />
　その根源にあるのはマスコミとケミカル企業の広告によって作られた清潔神話にあるのは疑いの余地はない。<br />
　しかし元来、日本人はにおいにはもっと寛容だったはずだ。<br />
　生臭いにおいのせいで魚を食べられないという女性も多い。<br />
　長期間保存しておいたのならともかく、それは本来の鮮魚の香りというものだ。</p>
<span id="index2_photo_1_12">（写真その1）<span class="index2_pic_1_12"></span><!-- /span#index2_photo_1_12 --></span>
<p>　これは僕ばかりではないかもしれないが、幼年期からにおいに関する記憶というのが僕には結構ある。<br />
　においの記憶でまず思い出すのは家のにおいだ。<br />
　僕が生まれた家にはまだ祖母や伯母がいて年寄りが多かった。だから家には老人のにおいが染み着いていた。<br />
　たまに余所の家に行くと自分の家とはまったく違うにおいがしたものだ。<br />
　家にはそれぞれ独特のにおいというものがある。その道の研究者によれば、あれはその家に着くカビのにおいなのだそうだ。だからどこの家にもその家独自のにおいが存在するわけだ。</p>
<span id="index2_photo_2_12">（写真その2）<span class="index2_pic_2_12"></span><!-- /span#index2_photo_2_12 --></span>
<p>　あと僕が好きだったのはお陽様のにおい。<br />
　そう、あの天気のいい日にたっぷりと陽に干したふかふかの蒲団に顔を押し付けて嗅いだ、香(かぐわ)しいあのにおいだ。<br />
　またこれとは反対の、ちょうど今時分、梅雨時に降る雨のちょっと冷たくて埃りっぽいようなにおい。<br />
　今でもたまに雨の日にこのにおいを感じると、懐かしさと共に子供の頃の雨空の下の思い出が鼻腔の奥のほうにぼんやりと漂ってくる。</p>
<p>　このほかにも早朝の澄んだ空気のにおいや、ひんやりした夜のにおい。<br />
　季節独自のにおいもある。<br />
　夏の学校のプールの消毒薬の混ざった水のにおいや炎天下の空の下の草蒸すにおい。<br />
　真っ赤に染まった秋の夕焼け空に漂う町のにおい。<br />
　冬の終わり間際に一瞬だけ感じる春の香り。<br />
　においの記憶は強烈な郷愁や追憶を伴って僕の脳裏にクッキリと輪郭を描いて刻まれている。<br />
　デ・ジャ・ビュ(既視感)という現象を感じたことがおありだろうか。<br />
　あれとは少し違うかもしれないが、ふいにどこか遠い記憶にあるにおいに触れると、まるで時が止まったみたいにその記憶の在りかを探してしまうことがある。</p>
<p>　さて、毎日懸命に働いている世のお父さんたち……。<br />
　いろいろな人生の経験と苦労の上に身についた自分のにおいではないか。もう少し自信を持ってもいいのではないだろうか。</p>
<p id="last">　僕の父親は、僕が生まれた時点ですでに五十歳を超えていたので、僕が物心のついた頃にはかなりの加齢臭があった。<br />
　父が仕事を終えて帰ってくると、いつも僕は背中に飛びついて鼻をこすりつけた。<br />
　少し汗臭くて、時には酒臭いこともあったけれど僕は決してそのにおいが嫌ではなかった。<br />
　今になって判る。それは大人の男の「匂い」だった。</p>
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   <title>第十一回　喫煙者の憂鬱</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.lohas.co.jp/essay/otake/archives/2008/05/19/224152.php" />
   <id>tag:www.lohas.co.jp,2008:/essay/otake//13.142</id>
   
   <published>2008-05-19T13:41:52Z</published>
   <updated>2008-05-19T04:40:34Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十一回　喫煙者の憂鬱 文：イッコー・オオタケ ｜ 2008....</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十一回　喫煙者の憂鬱<span class="index2_title_11"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.05.19</p>
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<div id="index2_contents_1">
<span id="index2_photo_1_11">（写真その1）<span class="index2_pic_1_11"></span><!-- /span#index2_photo_1_11 --></span>
<p>　その昔、僕はタバコの似合う大人にあこがれた。<br />
　考えてみれば高度成長を続ける昭和の真っただ中、僕の記憶では父も大伯父も親類のおじさんたちも大人の男の人はみ～んなタバコを吸っていた気がする。</p>
<p>　実際、銀幕の中では石原裕次郎や宍戸錠が、勝新太郎や田宮二郎が、TVドラマではショーケンや松田優作が、カッコ良く咥えタバコをキメていた。<br />
　文壇に至っては、まぁ仕事柄と言ってしまえばそれまでだが吸わない作家を探す方が難しい。この頃はまだ缶入りの両切りピース、いわゆるピーカンを脇に置いて延々と吸い続ける猛者も珍しくなかった。<br />
でも今東光や柴田錬三郎みたいなものの判った大人がタバコをくゆらすポーズはやっぱりサマになっていた。</p>
<p>　先日映画監督の市川崑氏が93歳で亡くなったが、この人も愛煙家として名を馳せた人だった。ちょうど都合良く一本欠けた前歯にタバコをはさんでカメラのファインダーを覗きこむ姿は愛らしくもあった。<br />
　聞くところによるとなんでもこの市川監督、87歳で禁煙されたそうである。なんとも切なくもいとおしい話だ。</p>
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<div id="index2_contents_2">
<p>　昨今「ちょい不良(ワル)オヤジ」なる珍妙なフレーズがマスコミでブームになった。<br />
　元々は中高年世代向けのファッション雑誌が消費を拡大するために考えたコンセプトらしいが、段々このフレーズだけが独り歩きを始めて僕らオヤジ世代自らが喜んでこのブームに乗ってしまった。<br />
　その結果、休日の都会のちょっと小洒落たショップには明らかに不似合いなレザージャケットや原色系のシャツを着た、ただのオヤジが溢れることになった。</p>
<p>　ちなみに僕はこの「ちょいワルオヤジ」というネーミングが大キライだ。<br />
　なんと薄っぺらい言葉なんだろうと思う。<br />
　ちょっと奇抜なデザインのネクタイなんか締めて飲み屋に行って、ネクタイをピラピラさせながら女の子に「どうだ、オレってちょいワルだろ? 」みたいなことを言ってるオヤジなんかに出くわすと、後ろから忍び寄っていってクビのひとつも絞めてやりたくなってしまう。<br />
　それでいてこういうオヤジに限って禁煙してたりするのである。<br />
　先に挙げた愛煙家の中にこんな安っぽいフレーズを附けられて喜ぶようなオヤジは一人もいない。<br />
(…と、僕は確信的に思っている)</p>
<p>　本来喫煙にしろ酒にしろ嗜好品というものは、例え身体に害を及ぼすとしてもその個人の責任と判断でたしなむべきものだ。ただしそこには、たしなまない人への配慮が絶対条件として担保されねばならない。<br />
　最近は日々喫煙者の肩身が狭くなる一方のようだ。でも未だに彼らの無神経な行動がいたる所で目につく。<br />
　せまいラーメン屋のカウンターでの隣で平然と吸う。家族連れで混雑した街中での歩きタバコ。火のついたままのタバコをクルマの窓から投げ捨てる。<br />
「これじゃ言われても仕方ないな」と思う。</p>
<p>　だからと言ってこんなことは法律や条例みたいなものでお上から縛られるべきことじゃない。世間の人たちが喫煙者もずいぶんとマナーが良くなったものだと思うようになれば風当たりもだいぶ変わると思うのだ。</p>
<p>　なんだかここまでは愛煙家を擁護してきたような流れになったが、僕自身は四年前にきっぱりタバコとは縁を切った。<br />
　だから僕に喫煙者を擁護する理由はない。でも一方的に非難する気にはなれない。<br />
　今この時代にタバコを吸い続けるのはむしろ覚悟の要る行為だと思う。</p>
<p>　僕がタバコを止めた理由はもちろん健康面もあるが、もういい加減面倒臭くなったのだ。<br />
「何が? 」って、一つはこの時代にタバコを吸えば親しい人から禁煙を勧められる訳で、それでも吸うにはそれなりの言い訳が要る。これを毎回捻り出すのが面倒になった。<br />
　それともう一つは、仕事場や外出した時にいちいちタバコとライターを持ち歩かねばならないこと。タバコが切れてもライターを忘れてもタバコは吸えず、ずっとイライラすることになる。<br />
　この二つに僕はいい加減疲れてしまったのだ。<br />
　だから四年前のある日、たまたま風邪で三、四日タバコが吸えなかった期間があったので「止めてみようか…」と思い立ち、そのまま無期限延長して止めた。</p>
<p>　タバコを持ち歩く必要がなくなって、「ああ、これでタバコから解放された」と思った。<br />
　思えば三十年近くも吸っていたのだから無理もない。<br />
　タバコを止める、なんていうのは所詮その程度のことだ。そんなに難儀なことじゃない。<br />
　むしろ喫煙者バッシングのこの時代に、病気の恐怖に怯えながら自覚と責任をもって吸い続けることの方がよほどエネルギーが必要なのじゃないかと思う。</p>
<p id="last">　でも、それでも吸い続けようという勇気あるスモーカー諸氏に、僕は敬意を表したい。<br />
　ただどんなに悪者にされても「ちょいワル」なんかじゃなくて、ホンモノの大人のオヤジであっていただきたいものだ。</p>
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   <title>第十回　足るを識(し)る</title>
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   <id>tag:www.lohas.co.jp,2008:/essay/otake//13.138</id>
   
   <published>2008-04-14T08:26:29Z</published>
   <updated>2008-04-14T13:07:39Z</updated>
   
   <summary> おとなの能書き 第十回　足るを識(し)る 文：イッコー・オオタケ ｜ 2008...</summary>
   <author>
      <name>システム管理者</name>
      
   </author>
   
   
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      <![CDATA[<div id="index_left">
<div id="index2_top_l">
<h3>おとなの能書き<span></span></h3>
<h4>第十回　足るを識(し)る<span class="index2_title_10"></span></h4>
<p>文：イッコー・オオタケ ｜ 2008.04.14</p>
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<div id="index2_contents_1">
<p>　これは食通で知られる、ある作家の“食”にまつわるインタビューでのエピソードだ。<br />
　子供の頃にやはり食通だった父親に度々外食に連れて行かれた時、中華料理の大皿に盛られた料理を自分の皿に取ろうとすると父親から口喧(やかま)しくこう言われたそうだ。<br />
「いいか、料理は何をいくら食べてもいい。でも皿には自分が食べられる分だけ取りなさい。食べ切れないほど盛るのは行儀の悪い、卑しい行為なんだよ」<br />
　この作家は今でもこの教えを固く守って自分の子供にも戒めていると言う。</p>
<!-- /div#index2_contents_1 --></div>
<div id="index2_contents_2">
<span id="index2_photo_1_10">（写真その1）<span class="index2_pic_1_10"></span><!-- /span#index2_photo_1_10 --></span>
<p>　僕は食いしん坊なのでバイキングスタイルのレストランなどに行くと時々この手の恥ずかしい失敗をやらかすことがあるが、僕がこのエピソードを思い起こしたのは食事のシーンとは無縁な環境問題のニュースをテレビで見ていた時だった。</p>
<p>　長大な年月を経て形成された北欧の氷山が不気味な音とともに崩れ落ちていく。温室効果による世界的な気温上昇は北極の氷をも溶かし極地に生きる生き物たちの生命を奪う。<br />
　溶け出た大量の水はやがて世界各地で人々の生活域に迫り、島を、大地を呑み込みついには人命を脅かす。<br />
　近年になってニュース映像でたびたび流される、実に恐るべき光景だ。これはすべて人間が日々の文明生活を営む中で化石燃料を大量消費し続けた結果によるものである。―というのは今や誰もが知る通りだ。</p>
<p>　これはまさしく地球の限りある資源を喰い尽す行為に他ならない。<br />
　食べ切れないほどたくさんの料理を自分の皿に盛り続けた「卑しい行為」が招いた惨状と言っていいのではないだろうか。<br />
　先のエピソードが示唆するのは、必要以上にものを欲しがるな。与えられたものを無駄なく大切にせよ。という教訓であると同時に人間の品性への矜持なのだ。</p>
<p>　実のところ環境破壊の問題は来るべきところまで来ていて、現状のまま進めばいよいよ抜き差しならない状況に陥るというのが大方の識者たちの見方だ。多分、それは正しくて実際そうなるのではないかという気がする。</p>
<p>　かつて円谷プロで脚本を担った故、金城哲夫は東西の冷戦時、長く大国が核兵器開発にしのぎを削った状況を例えて「血を吐きながら続ける悲しいマラソンだ」と書いたのが、冷戦を遥か遠くに超えた今、現実味を帯びて我々に迫ってくる。</p>
<p>　全世界で今、さまざまな環境問題への取り組みが行われている。だが結局のところ解決への大きな決定打となる方策は何ひとつ実行されていない。<br />
　なにしろ事ここに至ってさえなお世界最大のCo2排出国である米国は、かの京都議定書の批准さえしていないのだから。</p>
<p id="last">　これは断言してもいいと思うが、環境破壊の進行を確実に食い止める方法はたったひとつしかないと思う。<br />
　文明国に暮らす我々自身が自らこう宣言することだ。<br />
「もうこれくらいで充分、これ以上の便利は求めない」と。<br />
　実際、我々の身の回りには生きるために必要のないモノに溢れている。<br />
　我々の文明は便利、快適を追及することで発展してきた。<br />
　文明国に暮らす人間はその恩恵にどっぷりと浸かって日々を送っている。それを今、敢えて放棄する決断を果たして我々は下せるだろうか。<br />
「足るを識(し)る」とは箴言(しんげん)なのだ。<br />
　小さな取り皿に地球の資源をてんこ盛りにしてきたこの“卑しい愚行”を、今一度人類の英知で転換すること。ここに環境破壊を止める大きなカギがある気がする。<br />
　環境問題の深刻さはもはやその段階まできているのではないか。僕にはそう思えてならない。</p>
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